自分と他人はどっこいな知性

自分と異なる意見の人間は愚かに違いない、という捉え方をする人はどうも少なくない。けれど私はこうした捉え方が苦手。向こうはこちらの気づいていない事実を把握しているのかもしれない。逆に向こうはこちらの知ってることを知らないだけなのかもしれない。どちらが優れてるかなんてわからない。

「群盲象を撫でる」ということわざがある。目の見えない人が生まれてはじめてゾウを触り、それぞれがてんでバラバラな意見を言い合う。しっぽを掴んだ者は「呼び鈴のヒモ」と言い、耳を触った人間は「カーテン」と言い、上に乗った人間は「丘」と言い、足を触った者は「柱」と言い。

みんな自分の触っでいる事実に自信があるから譲らない。それどころか自分と異なる意見を言う人間が愚かに思えて仕方ない。「呼び鈴のヒモに決まっているだろう!お前ら愚かにも程がある!以上、論破!おしまい!」と片付けたくなる。

ところが1人、他人は自分と変わらない人間だと考える者がいて、「なあ、俺たち、同じものを触ってるんだよね?でもこれだけ意見が違うのは、巨大なものなのかも?」と新たな仮説を提案すると、ガラリと雰囲気が変わった。もう一度、冷静に報告し合うと、正体が見えてきた。
「これって、ウワサに聞くゾウなんじゃね?」

自分の知性を最上とし、異なる意見の持ち主を愚かだと決めつけていたら、ゾウの真実にたどり着くことはできない。自分も他人も知性はどっこいどっこいだと捉えるから、ゾウという真実にたどり着ける。

自分と異なる意見の人を愚かと決めつける行為は、結局自らを愚かにする行為のように思う。「論破!」というのが流行ったりしたみたいだけど、私は論破することの価値がよくわからない。ゾウを「呼び鈴のヒモ」であると全員に承諾させても、ゾウという真実にたどり着けない。一体なんの自己満足か?

私は異なる意見の人に出会うと、まず「その人と同じ生い立ち、立場、情報に囲まれたなら同じ意見になるのだろう」と仮定する。その上で、「どんな情報に触れるとそんな意見になるのだろう?」と、前提を問うてみる。「こうした情報に出会うとこんな意見になりそう」と仮説を立て、情報を探してみる。

そうして、相手が持ってそうな情報を把握する。その情報も加味して、もう一度自分の考えをシャッフルする。また他の意見を聞き、その人が持ってそうな情報を探す。そうして「群盲象を撫でる」作業を自分の中で繰り返す。

そうしていくと、異なる意見はバカにする必要はなく、自分の考えに様々な情報を付加する重要なきっかけになる。自分と異なる意見があるということは、自分の知らない情報がそこに隠されているかもしれない。そう捉えると、相手を自分より劣ると考える必要はないように思う。

自分の意見に自信のある人は、様々な視点から検討済みだ、だから自分の意見は正しい、と考えてしまいがち。でも私は、視点を変えるだけでは不十分な気がする。「視座」を変える必要があると考えている。自分の立場ではなく相手の立ってる場所に立ち、そこから見える景色を眺めてみる。

自分と異なる意見の人は、立ってる場所も違う。その場所から見える景色はかなり違う。そこから考えると、相手がそんな意見になることも自然なことだと感じられる。

対立する意見を行きつ戻りつして、少しずつ思考を深めていくのが私のやり方なのだけど、すると、全く意見の異なる人達が共に「いいね」を押してくれることがある。視座を変えてみると、異なる意見もそれなりに理由があることが感じられるからかもしれない。

ガーゲン「関係からはじまる」に面白いエピソードがある。アメリカでは中絶問題は世論が真っ二つになり、互いに折り合うことがない。相手の意見を愚かだ、考えが浅いと言って非難しあい、自分の考えこそ正しい、と思い込んでしまう。

しかし、なぜその意見を持つに至ったのか、個人の体験を語り合うことにした。「自分の妹がこんな経験をして」「自分自身がこんな悲しいことになり」と、個人のエピソードを紹介し合うと、互いに「自分もそんな目に合ったら、同じ意見を持つようになったかも」と理解し合えたという。

「自分も相手と同じ生い立ち、立場、情報だったら、相手と同じ結論に至るかも」という感覚、それこそが「群盲象を撫でる」で、話し合い、ゾウであることを見抜くコツなのだと思う。自らを相手より賢いとみなしたとたん、養老孟司氏の言う「バカの壁」はできるのかもしれない。

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