「論破」って意味ある?

私は「論破」という言葉も行為もキライ。意味があるとは思えないから。討論というのも私は好きではない。相手の論を討つのが目的になってしまっていて、真実を突き止めようという意志がどこかに消し飛んでしまっている。それでは勝ったところで意味があるのか?という気がする。

もし「群盲象を撫でる」の話で「論破」をやったらどんなことになるだろう?
目の見えない人たちが初めてゾウを触ったとき、みんな部分しか触れないから「呼び鈴のヒモ」「丘」「壁」「柱」「カーテン」「武器」「吹奏楽器」などと、バラバラなことを言った。さあ、ここで「論破」しようとしたら。

相手の論を討つためにありとあらゆるテクニックを使って追い詰め、「論破」し、「呼び鈴のヒモ」以外の意見を全て倒したとして、それにどれだけの意味があるのだろう?ゾウだと誰も見抜けないまま終わってしまうだけではないか。討論の勝者といえども、もはや滑稽にしか見えない。

「呼び鈴のヒモ」だと思っている人から見たら、他の人たちの意見は滑稽にしか見えないかもしれない。壁とか丘とか柱とかカーテンとか武器とか吹奏楽器とか、自分の感覚とかけ離れていて、「何て愚かな連中だ」と肩をすくめたくなるかもしれない。でもそれは自分も同じ立場なのだ。

相手の意見も、その意見に至るにはそれ相応の理由がある。ゾウの足を触った人には柱としか思えないだろう。ゾウの上に乗った人は丘だと思って当然だろう。腹を触った人には壁としか思えないだろう。耳を触ったらカーテンと思って不思議ではない。キバは武器に、鼻は大きな吹奏楽器に思えるだろう。

大切なことは、相手がそう感じてることを頭ごなしに否定しないことだ。それよりも、なぜそう感じたのか、その根拠、前提を問うことだろう。すると、丘と言っていた人から、さほど平らではなく、すぐに崖のように落ち込んでるという報告が得られるかもしれない。柱と言ってる人からは。

あまり真っ直ぐではなく、ザラザラしてるという報告をしてくれるかもしれない。吹奏楽器と言ってる人は、クネクネ動くという報告をしてくれるかもしれない。なぜそう思ったのか、その根拠、前提を聞き、ドンドン尋ねていくと、バラバラに見えた情報がつながっていく。こうして、

「もしかして、ウワサに聞くゾウじゃないか?」にたどり着けるだろう。
「論破」しようとしたら、決してゾウという真実にたどり着くことはできないだろう。相手の論を討ち負かすことばかり考えた「討論」では、そうした深掘りはできないだろう。

私は、意見と意見を組み合わせることで真実を見極める議論の仕方を「築論」と呼んでいる。昨今の「論破」や討論というのは、トンカチがノコギリをボロクソに言って言い負かすような不毛な行為に見えて仕方ない。「お前はクギも打てないのか!」と。ノコギリにクギを打てという方がどうかしてる。

けれど、家を作るにはトンカチもノコギリも必要だ。トンカチがクギを打ち、ノコギリが木を切ってくれるから家が建つ。家を建てるには、ノコギリやトンカチ、クギ、カンナやノミなど、様々な道具が必要。築論は、こうした個性をうまく組み合わせて、より高度なものを作り上げようという行為。

トンカチはクギを打つことしかできない。ノコギリは木を切ることしかできない。でもその2つが組み合わさると、家を建てるという画期的な事ができる。トンカチだけでもできない、ノコギリだけでもできない画期的なことが。

論破とか討論とかは、私には価値があるとは思えない。築論をしたほうが私ははるかに面白いと考えている。日本だけでなく世界が、討論や論破という、真実からかけ離れた行為をやめ、築論するのが当たり前の社会になれば良いのに、と思う。

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