「疑う」を問う

「疑う」ことは、合理的精神の持ち主には必須の要件と考えられている。しかし私には、「疑う」はあまりにも副作用が大きすぎて、見直した方がよいように思われる。「疑う」副作用とは、「信じて疑わない」という、何とも皮肉な現象が起きること。

自分は何事も疑ってかかり、証拠集めは吟味を重ねている、という人ほど、自分がたどり着いた境地の正しさを疑わない。自分の見解を信じようとしない、疑ってかかる人間を愚かだと断じる心理に陥りやすい。「俺ほど疑り深い人間が他にいようか。その人間がたどり着いた境地は絶対正しいに決まってる」

ポパーは面白いことを言ってる。すべては暫定的な仮説に過ぎない。そして科学的な仮説であるためには、「こうした証拠が出てきたときは潔く自説を撤回します」という反証可能性を示す必要がある、ということ。自らの主張を覆せる弱点をさらして初めて、科学的な仮説と呼びうる、と。

ポパーが登場してからだいぶ様子が変わってきたのだけど、それでもデカルト以来の「疑う」の魅力にとりつかれている人は多い。
デカルトは「方法序説」で、疑い尽くせば絶対正しい思想を再構築できると主張した。これは大変説得力があり、後世の知識人はマネをした。

そして皮肉なことに、自分は絶対正しいと信じて疑わない人間を生んだ。ロベスピエールは、自分の理想とする政治を実現するために、政敵を虐殺した。全員農業する国こそ幸せと疑わなくなったポル・ポトは、異論を述べる知識人を虐殺した。レーニンも政敵を虐殺した。

ロベスピエールもポル・ポトもレーニンも、自分ほどすべてを疑い尽くした人間はおらず、だからこそたどり着いた境地は絶対正しいと信じて疑わなかったのだろう。だから平気で政敵を虐殺できたのだろう。疑い尽くす合理的精神の持ち主だと自認する人間は、自分の境地を信じて疑わなくなる。皮肉。

私は、「疑う」をやめて、「前提を問う」に置き換えれば十分だと考える。物事はたいがい、「この前提が成立している間は正しい」という限定つき。その前提が崩れたら、法則も成り立たなくなることが多い。だから、ある事柄がどの前提条件の間で成立するのかだけ、問えばよいのだと思う。

金属の研究では、金属を水素にさらすともろくなる水素脆化という現象が知られていた。水素はとても小さくて金属を通り抜けたりしみこんだりして、金属組織を破壊するからだった。
ある研究者が、超高濃度の水素にさらしたらどうなるのか実験してみた。すると、金属はもろくなるどころか丈夫に!

水素にさらすと金属がもろくなる、というのは、「中途半端な濃度の水素にさらしたとき」という前提では正しかったが、前提条件が「超高濃度の水素にさらしたとき」に変わると、結果が大きく変わった。物事は、前提条件が変わると結果が変わることが多い。

これまで正しいと信じられてきたことには、一定の信憑性がある。だから、全部疑う必要はない。しかし、それが成立するのはどんな前提条件が揃っているときなのか、「前提を問う」ようにすると、少し前提をずらすだけで新しい発見が可能になる。

チェックポイント阻害剤によるガン治療も「前提を問う」ことで生まれた技術だと言える。免疫を活性化してガンを抑えようとするのはムダ、ということは教科書的常識だったそうだけど、免疫を大人しくさせる仕組みを邪魔する、という、それまでの前提とは違うアプローチが、これまでと違う結果を生んだ。

最近、「教える」「ほめる」「信じる」という、これまで良い効果があると信じられてきた行為を吟味したけど、これも「疑う」ではなく、「前提を問う」で見出してきた。うまく行くときの前提と、うまく行かないときの前提を問うたから、見えてきた。
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「疑う」は、かえって信じて疑わない「信念」を生じかねさせない。オルテガの言う、信じて疑わない「信念」は、誰の言うことも小馬鹿にする夜郎自大的な自信家を生みかねない。「疑う」ことの効用を「信じる」のは、そろそろ止めた方がよいように思う。

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