哲学者・思想家はどこがエラい?

子どもの頃、ソクラテスとかカントとかヘーゲルとか、哲学者とか思想家と言われる人たちの何がエラいのか、よく分からなかった。なんか難しいことを考えてた人たちらしい、という程度の認識。難しいことを難しく考えて、ご苦労なこって、という感想。正直、高校卒業しても何が偉いのか分からなかった。

それと比べて、アレクサンダー大王とかナポレオンとかエジソン、ガリレオとか。まんが偉人伝で出てくる歴史上の偉人はわかりやすい。何をし、何を成し遂げたのかがはっきり分かる。ところが哲学者・思想家はそうしたマンガ偉人伝にも全然顔を出さない。

「社会思想史概論」という本を読んでようやく、なぜ哲学者や思想家が歴史の教科書で名前が登場するのか、意味が分かった。世界の新たな常識を作ったんだ。それまでの常識を覆し、今の時代に通じる新たな常識を。

たとえばデカルト。デカルトが生まれる前、西欧は大混乱に陥っていた。
西欧は千年以上もの長い間、キリスト教の教会が支配してきた。ゲルマン人の大移動で西ローマ帝国が崩壊、皆が大混乱に陥る中、比較的秩序を保った教会と僧侶が西欧社会の指導者として君臨してきた。そして。

その指導力を駆使して十字軍まで起こし、エルサレム奪回まで企てた。十字軍派遣のための資金集めに免罪符を売ったらみんな買ってくれた。それに味をしめた教会は、しょっちゅう免罪符を発行するようになった。それと同時に僧侶たちの堕落が進んだ。

僧侶は生涯独身で、エッチなことをしてはいけないことになっていた。ところが教会の地下には赤子の骨がうず高く積まれていた、という話まであった。姦淫の罪を僧侶が犯しているのは、公然の事実になっていた。しかし誰もが僧侶の悪口を言えなかった。悪口を言えば地獄に落ちると言われていたから。

ボッカッチョが「デカメロン」というエロ本を書いた時、僧侶がスケベであることを笑い話として紹介しまくった。それらは実話をもとにしたものらしく、僧侶の堕落ぶりが初めて文字として残された。ボッカッチョは僧侶の悪口を言ったのだから、神の怒りを買い、神罰が下るはずだった。ところが。

まあまあ寿命まで無事に生きた。これでどうやら、僧侶や教会の堕落ぶりを口にしても神罰ですぐ殺される心配はないらしい、ということが明らかとなった。でも、教会や僧侶への信頼を全部捨てるところまではいかなかった。代わりになる信仰が存在しなかったから。

そんな時、ルターが現れた。ルターは最初、教会と僧侶のおかしなところを注意するくらいのつもりでいただけなのだけど、教会は「よくも逆らったな」と怒り、そしたらルターもなにくそと怒り、売り言葉に買い言葉、ついにルターは「教会なんかいらねー!僧侶もいらねー!」と極端なことを言い出した。

しかしルターが現れた頃には、事情が少し変わってきた。印刷術が現れ、聖書をたくさん印刷することができた。僧侶でなくても聖書を手に入れられた。「教会とか僧侶から教えてもらわなくても、聖書を個人が読めばたくさんだ」と、教会と僧侶の権威を否定した。

しかもルターは、よりキリストの生まれた時代に近いと思われる、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳して印刷した。教会が使ってる聖書はラテン語で書かれていて、誤訳があり、「こっちの聖書の方が権威があるもんね」と言い出した。

以後、教会側はカソリック(旧教)、ルターなど新しい考え方を示した側はプロテスタント(新教)と呼ばれ、血で血を洗う争いが始まった。「聖バーソロミューの虐殺」は、そうした混乱の中で起きた悲劇だった。

十字軍のように、キリスト教徒じゃない異教徒相手に戦うのはまだ理解できるとしても、キリスト教徒同士が殺し合うなんて。しかも互いに「自分こそが正しい、相手が間違っている」と言い張って、妥協点が見えない。そうした大混乱の中でデカルトは生まれ育った。

キリスト教はそれまで、西欧の人たちの心張棒だったけど、旧教と新教のどっちが正しいかわからない。正しい方を選ぶ方法もわからない。そんな社会状況の中で、間違いを含まない、絶対正しい考えの導き方を見つけたい、とデカルトは考えたのだろう。

で、デカルトのたどり着いた方法は、次のような方法論だった。
①すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ。
②確かと思われる事柄から思想を再構築せよ。
①の作業を続けると、どうしても否定できないものが1つ残る。考えるまいとしても考える自分の存在。我思う故に我あり、ってやつ。

やった!何をどう疑っても絶対否定できないものを見つけた!疑い、否定するものの中に神様さえ含め、あっさり疑えたのに、考える自分の思考の存在だけはどうしても否定できない。デカルトは、誰もが認めるしかないこの「事実」から思想を再構築せよ、と提案した。

このデカルトの提案は恐るべき破壊力を持っていた。デカルトは一応、「方法序説」の中で神の存在証明とやらをしてるのだけど、これは少し前にガリレオが宗教裁判にかけられたことに恐怖して付け足した言い訳なんじゃないかなんて私は思う。少なくとも。

デカルトが示した思考の手順で現れる神様は、キリスト教の神でなくっても構わない。旧教でも新教でも構わない。というか、宗教は特に出番がないことを、読んでいて感じる。理性的に、合理的に物事を理解し、判断できるんだという自信のようなものが読んでると出てくるから。

ここから西欧の人々は、キリスト教から離れた思考をし始める。それまでの西欧人の思考は、全てキリスト教に結びつけて考えられてきたのに、デカルトの思考法だと、神様の出番がなくてもいろんなことが見えてくる。理解もできるし判断もできる。神様の姿を見ずに済む合理主義の誕生。

ここから合理主義の時代がスタートする。科学が発展する基礎が築かれる。何でも教会や僧侶の意向を気にし、神罰が下らないかビクビクする必要はなくなった。ルターが教会にジャブを入れ、デカルトが旧教も新教もひっくるめてキリスト教支配にカウンター食らわした格好。

デカルトが生み出した「新常識」は、まさしく世界を変えた。歴史を変えてしまった。その意味で、英雄豪傑以上の影響力を発揮したと言える。
こうしたことが見えてくると、哲学・思想を学ぶのも楽しくなってくる。世界の新常識を生み出すコツが学べるかも。

私が気づきをツイッターで書くのも、そうした「もしかしたら」を願ってのこと。人間は「思考の枠組み」(思枠)を超えては行動も思考もできない。社会の常識を超えた行動はとれるものではない。だから「思枠」を少しでもずらし、新常識を生み出す工夫が必要。

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