「お陰様で」が他者肯定感という奇跡を呼び寄せる

「自己肯定感」考。
自己肯定感を扱う子育て本は大変多い。この流行には一定の効果があったとは思う。昔は教育熱心な親が「あなたのためを思って」と勉強や習い事を強制し、子どもの気持ちを考えないケースが少なくなかった。自己肯定感を重視する視点は、そうした無茶を無茶と自覚するのを促した面が。

でも、自己肯定感が高ければすべてがうまくいくというような魔法の杖でもない。それに、考えられているほど自己肯定感というのは強くはできるものではない。もしクラスのみんなから総スカン食らったら、容易に自己肯定感は崩壊する。家族が提供できる自己肯定感には、実は限界がある。第三者の肯定がないと崩壊。

いじめっ子の中には、自己肯定感の高い子どもをターゲットにする場合もある。「あいつ、何の苦労もしてなさそう。気に入らないな」と。クラス全体からシカト(無視)されると、それまで高かった自己肯定感はあっさり崩れる。どうしたらよいのかわからなくなる。

自己肯定感は恐らく、一神教の文化でこそ生きるものなのだろう。たとえ万人が自分を認めなくても、神は見ている。神様さえ分かってくれていたら恐れるものはない。実は欧米の自己肯定感は、「神様肯定感」の可能性がある。神様さえ肯定してくれていたら恐れるものはない、という強さ。

しかし、八百万の神の文化にある日本では、一神教のような確固たる自己肯定感(神様肯定感)は育てにくい。自分を認めてくれる他者が必要になってしまう。日本の文化だと、実は自己肯定感では不足で、他者肯定感が必要なのではないか。

特に日本では「世間様」の感覚が強い。大人が若者にかける言葉で「そんなんじゃ社会に出たときやってけないぞ」というのをかなりの頻度で聞く。親の庇護から離れた第三者の海で、泳ぐ力がないなら溺れ死ぬぞ、と脅される。子どもは、世間様という第三者に認められ、つながりを築けなければいけないと言われ続ける。

そう、日本文化では、世間様という第三者に肯定されることが大切、という意識が強い。だからいくら家庭で自己肯定感を高めようとも、第三者とうまく関係を結べず、第三者から肯定されたという感覚が持てないと、容易に自信を失う。日本文化では、自己肯定感は他者肯定感に打ち勝てない。

昨今は日本人もすっかり合理主義になって、「お陰様で」という言葉について、「いや、お前なんかの世話になってないし」と考え、口にする気はないという人の話もよく聞く。しかしこの言葉は、もしかしたら、日本文化で重要な他者肯定感を生み出すための魔法の言葉だったのではないか。

たとえ具体的に世話になっていなくても、我が子を肯定的に見てくれる目があるから子どもは他者肯定感を確保し、勇気を持って赤の他人だらけの第三者の海に飛び込める。親以外にも自分を肯定してくれる人がいる、という他者肯定感が、社会に出る勇気を与えてくれる。

やはり「お陰様」なのだと思う。親は決して他者肯定感を提供できない。子どもも、親が自分を愛するのは当たり前だと考えがちだから。でも他人からの肯定は、親も子どももどうしようもない。すべての決定権は他人にある。他者肯定感は、赤の他人である第三者にしか提供できないもの。

親が決して提供できない他者肯定感を提供してくれる第三者が現れる。これは奇跡的なこと。こうした奇跡が増えれば増えるほど子どもは「自分を肯定してくれる第三者は必ず見つかる」という自信を得て、第三者の海に漕ぎ出る勇気を持てるようになる。だから「お陰様で」なのだろう。

子育てとは、親が死んだ後も生きていけるよう、親から独立して、子ども自身が「第三者とのネットワーク」を築いて生きていくまでの、橋渡しの作業なのだろう。いつか親の生きていない世界になっても、第三者とつながって生きていく。そうなるように祈るのが子育てなのかもしれない。

だとすればなおのこと、赤の他人にも関わらず、第三者であるにも関わらず、子どもを肯定的に見てくれる人がいれば、直接的に世話にならなくても他者肯定感を提供して頂ける価値はとても高いように思う。子どもが第三者と関係を結ぶ勇気は、他者肯定感でしか育めないのだから。

日本は、欧米とは異なる文化圏にあって、自己肯定感たけでは乗り切りにくい文化で生きていることにもっと自覚を持った方がよいのかもしれない。社会という第三者の海に漕ぎ出るには、他者肯定感をいくつも確保するという「奇跡」を呼び寄せねばならない。その魔法の言葉が「お陰様で」なのだろう。

どうか、私という親の存在が失われたとしても、この子を肯定的に見てやって下さい。そんな祈りの込められた言葉が「お陰様で」なのかもしれない。そしてこの言葉をその意味で発せられたのを聞いた人は、「この子を肯定的に見ることくらい、お安い御用だよ」と感じてくれる。

他者肯定感という奇跡を呼び寄せる祈りの言葉、それが「お陰様で」であるとするならば、合理主義的に考えても、大切にすべき言葉のように思う。子どもが楽しそうに社会に出て生きていけるように。そんな祈りを捧げることが、他者肯定感を呼び寄せるのだと思う。

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