「数える」という膨大な体験

小学校の算数でつまづく子は、数に関する体験が欠乏しているな、と感じる。いち、にい、さん、しい・・・と百まで数えた経験も少なければ、ミカン3個と4個を足して・・・とか、針時計で目盛り10個分進んだら・・・とか、日常での数とのつきあいがどうも少ない。

息子は幼いころから算数がかなり得意だけど、「そりゃあれだけ数のことをずっと考えてりゃな」と思う。3たす4を計算するのに、3つの点と4つの点を書いて、いち、にい、さん、しい・・・と数えて、合計の数を突き止めるやり方をずいぶんと長くやっていた。するとある日。

いきなり「7」と答えるようになった。私は驚いて「点を打って数えなくていいの?」と尋ねたら、「3と4は必ず7になることを発見した」と言った。「ついでに、順番が逆の4たす3も答えは同じ」と説明されて、私はビックリした。
実はこれ、大きな飛躍がある。

いち、にい、さん・・・と数えるやり方で合計を求める方法は、実は「3と4の足し算は、昨日は答えが7だったかもしれないけれど、今日は違うかもしれない」という不安があるからそうしている面がある。だから4たす3も、点を打ってその数を数えるというやり方にする必要がある。

しかし何十回、何百回と数えているうち、「どうも3たす4はいつも7になっている」「どうやら足す順番が逆になっても答えは同じらしい」ということに気がつく。その気づきを元に仮説を立て、そのつもりで3たす4,4たす3を計算してみたら答えはどちらも7。他の足し算も同様。

こうして、膨大な計算と、一つずつ数えるという体験を積んで初めて、3たす4は常に7だし、3と4の順番が入れ替わっても答えは同じ、という重大な「発見」を2つする。これにより、子どもの計算は一気に加速するようになる。点を数えるのではなく、膨大な体験から確信をもって7といきなり答える。

6たす7のように、答えが二けたになる計算は、子どもにとってハードルが高い。これは再び、点を打って数えるのが無難となる。しかしこれも数を数える膨大な体験をするうち、6たす4は常に答えが10になること、7は4と3を足したものであることに気がつく。すると。

7をいったん4と3に分解し、6と4を足して10とし、余った3を足すことで13という答えを導くことができる、ということに気がつく。しかしこの計算はかなり複雑。6と4を足せば10になる、ということを頭の片隅に置いたうえで、7を4と3に分解するという作業も同時に進めなければならない。

しかも、7から引っぺがした4を6に足して10とし、余らせておいた3を後から足して13にするという、かなり複雑な工程を経て初めて答えを導ける。これには、頭の中で複数のことを「置いておける」能力が育っていなければならない。そして適宜「引っ張り出す」能力も必要。

これを実行できるようにするには、6を3たす3に分解したり、7を4と3に分解したり、何と何を足せば10ピッタリになるのかというデータベースも頭の中で育っていなければならない。これだけのことをマスターするには、膨大な「数える」体験が必要。

そして、膨大な「数える」を実行した結果、「もしかしてこういうことが成り立つんじゃ?」という気づきが得られたら仮説を立て、その仮説通りになるかどうかを確かめる、という作業が必要。1は9と、2は8と、3は7と足せばいつも必ず10になる、という仮説は本当か?という検証作業。

そして、その仮説がどうやら正しいと確信ができたら、「足せば10になる組み合わせ」というデータベースができ、繰り上がりの計算を精度よく進めることができるようになる。数える体験を膨大に積み上げる、仮説を立てる、検証する、という過程を経て初めてそれは身についていく。しかし。

教えると混乱することが多い。「7と3は足すと10になるって前も教えたでしょう?」と言うと、子どもは、え?え?と戸惑い、叱られるまいというところにばかり意識が行って、7たす3を点で打って、一つずつ数えるという体験を重ねるゆとりを失う。

「7たす3は10なんだから、覚えてしまえばいいの!」と言っても、子どもは7って何か、3って何かということ自体が実感つかめていないから、言われていることの理解が追いつかない。追いつかないのに親の言葉が次々流れ込んできて、自分の体験をゆっくり吟味する気持ちのゆとりを持てない。

こうすると、叱られる恐怖ばかり育って、数に関する体験を積むことが難しくなる。点を打って1つずつ数えるという地道な体験を何度も何十度も何百度も繰り返すことで、「7と3を足せば必ず10になる」という、膨大な体験から導き出された確信を持つことが難しくなる。

点なり棒なりを描いてその数を数えるという、大人からすればかったるい作業を、子どもは存分に体験する必要がある。そしてこの作業は楽しむことが大切。親や指導者がそばにいて、一緒にいち、にい、さん・・・と数える、共通の体験が必要。そして、答えを出したとき、驚いてくれる人がほしい。

膨大な数えた意見を経て、仮説を立て、検証した結果、「3たす4は必ず7である」ということに気がついた時、驚く大人がいれば、子どもはさらに膨大な観察を重ね、仮説を立て、検証する作業を繰り返すだろう。

私は、「3たす4は、本当にいつも7なんだろうか?」と問いかけたりしていた。子どもと同じ地平に立って、「3たす4がいつも7だなんて、考えてみたらどんな根拠があるんだってんだよなあ」と考えたから。親がそんなのだから、息子は膨大な計算を重ねて、自ら確信を得るしかなかったらしい。

そして、息子がもはや揺らぐことなく「3たす4は7であり、逆の順番の4たす3も答えは7」と自信をもって答えた時、心底驚いた。こうした確信を持てるという人間の発達の不思議さに。また、繰り上がりで二けたの足し算の法則も見つけてしまう手腕に。

大人がそうした姿勢で子どもと接すると、子どもは数の不思議に取り組むのが楽しくなるらしい。自分で数の不思議な法則に気がつき、それを親に披露して、親がそれに驚く、ということを繰り返すと、子どもはますます数の不思議な法則を見つけようとのめり込む。

親は教えようとするのではなく、「6たす7って、どうやって答えを出せばいいのだろう?」と不思議がっていたらよいのだと思う。目の前の子どもが現状手持ちで持っている道具だけで、知識だけで、果たして解けるものなのか?自分も子どもと同じ立場になってみると、実に難しいことがよく分かる。

いやこれ、どこからどう攻めたらいいのだろう?予備知識のある大人としてではなく、子どもと同じ装備しかない人間として考えてみると、実に難しい。で、子どもがどうやって解決しようとしているのかを観察するのは、なかなか興味深い。失敗も含めて、いろんなアプローチで試しているのが面白い。

試行錯誤してはうまくいかない、それを繰り返す中でそれでも「もしかしたら」を諦めずに続ける。すると、ある時、解決する方法を見つける。観察している側としては、「よくそれに気がついた!」と驚かずにはいられない。

算数の得意な子に育てたければ、子どもと一緒に数の不思議を楽しめばよいのだと思う。そして、教えるよりも子どもと一緒に試行錯誤して、どんな工夫をすればそれが解けるのか、一緒にウンウン悩めばよい。そして一歩を進めるのは常に子ども、大人はつねに「先回り」ではなく「後回り」。

すると、子どもは失敗を恐れず、試行錯誤を繰り返し、工夫を重ね、仮説を立て、検証し、新たな法則を発見する、という数の遊びを楽しんで取り組むようになると私は考えている。ゲームの攻略と同じ。それを一緒に楽しみ、一面クリアしたらハイタッチしたらよいのだと思う。あれこれ口を出さずに。

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