政治家官僚を「あいつら」と呼ぶ国、「私たち」と考える国

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)、たぶん第12弾。
2005年、スウェーデンのエコツアーに参加した。そのとき、衝撃を受けた。スウェーデンはEUに加盟する際、独自の通貨を守るか、ユーロに統一するか、議論が分かれた。「私たちはさんざん議論して、こうしようと決めた」と。

その発言をしたのは、政治家でも何でもない、ごく普通の中年女性だった。それが私には衝撃だった。国の決定を「私たち」と呼べるなんて!私たちが決めた、と実感がもてるなんて!
他方、日本は「国を厳しく追究すべきだ」などと、国を「あいつら」扱いする。自分とは違う存在だと考える。

政治家や官僚は、国民とは利害が異なる「あいつら」だとみなしがち。政治家や官僚も、国民を見下げて「これだから庶民は」と「あいつら」扱いしがち。たがいにレッテルを貼り合い、「私たち」から排除する。「あいつら」は違う、と。

スウェーデンの人たちはなぜ政府の決定も「私たち」と認識できるのだろう?私たちの総意が政府の決定になるのだ、という意識が持てているのだろう。そのため、広場に老若男女が集まり、この政策はどうすべきか?ということをよく話し合うらしい。政治家や公務員もその場にいて、一緒に語り合うようだ。

他方、日本は、政策を一般の人たちが語り合うことはあまりない。政治家と語り合うことなんて、特定の候補者を支援している人以外はいない。政治家との接点は、選挙で投票するときの投票用紙だけで、政治家に声を届けることはほぼできない。このため、分断してしまうのだろう。

私は、弁護士の無料相談のように、議員も定期的に無料相談会(無料なのは当たり前だけど)を開催し、当番で一般市民の意見を聞く機会をシステムとして作るようにしたほうがよいように思う。その際、政党色はなし。当番の議員が一般市民の意見を聞き、それを議員全員で共有するようにする。

各業界でも、その業界の問題を話し合う場に、議員も参加する機会を設ける。ただし政党色抜き。参加したい議員はみんな参加してもらう。たとえば保育士が一堂に会する場で、6人ずつに分かれて話し合うワークショップで、各テーブルに1人議員を配置するとか。

各業界で聞き取りした内容は、個人情報を伏せたうえで議員で共有する。そしてどういう政策が望ましいかを議員同士で議論する。こうすれば、市民は自分の声が政治に届いていると感じ、政治家も「私たち」なのだと実感が持てるのではないか。

政治と国民が互いに「あいつら」呼ばわりして、「私たち」の意識を持てないのは、まだまだ日本の政治家は、昔の良家出身の人間の職業、というエリート意識が消えていないからかもしれない。もう、そんなのはいらない。政治家はいろんな場で国民の意見を聞き、共に考え、政策を作っていけばよいと思う。

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