「のめり込む」体験が観察力を磨く

私はあまり詳しくないが、モンテッソーリは「のめり込む」ことを大切にしているらしい。乳幼児は一つのことに執着することがある。お皿をガンガン叩いたり、床に落としたり。親はついそうした行為を「行儀が悪い」と思って止めてしまうことがある。けれどそれでは「学習」を止めてしまうことになる。

子どもはスプーンでお皿を叩いたりするとき、その現象を追究しようとしている。プラスチックのお皿と陶器のお皿では音が違う。プラスチックは軽いし陶器は重い。床に落とすと軽い音、陶器だと重い音。落ちたあとカラカラ、あるいはガラガラ音を立てながら回る。陶器は時に割れてしまう。

こうした徹底した観察が以後の学習の「座標軸」になるらしい。プラスチックという名は分からなくても、このお皿と似た素材かどうか、それともあのとき割れてしまったコップと同じ素材だな、と、見当つけていく。のめり込むほどに追究した体験が、以後の体験を整理する座標軸となる。

しかしついついやかましいからとかの理由で、あるいは行儀が悪いからということでその追究作業を止めてしまう。これだと「座標軸」が得られず、ものを見ても見えず、聞いても聞けず、感じても感じずになってしまいかねない。学習の基礎が育たない恐れがある。

塾生たちを海に連れて行ったときのこと。一人が「なんにもない!ゲームセンターは?コンビニは?」と言った。私は海で遊べばいい、と返した。するとひどく落胆した様子で、持参した携帯ゲームをやりだした。
せっかくの海なのに遊ばないとは変なやつだ、と思っていたら。

その父親がクルマからイスを引っ張り出してテレビをつけ、備え付けの冷蔵庫から冷えたビールを出して一杯始めた。さながら家の快適な環境をそのまま持ち込んだ感じ。
そしてその父親は、ボーイスカウトで息子を積極的に自然のあるところへ連れ出した、という話をしだした。

しかし。息子が道端の何かに見とれようとすると「それは何々だよ、山ならどこにでもある、さあ行こう」と急かし、ともかくキャンプ地へ。そしてキャンプ地に着くと子どもにはマンガやゲームを渡し、自分は一杯引っ掛けたという。酒が早く飲みたくて、子どもを急かしたと言って笑った。

どうやら、「のめり込む」時間を子どもに与えず、せっかく自然や生命に興味を持っても親が当然視し、さもつまらないありふれたものとして片付け、子どもを引っ立てるためにゲームやマンガといった他人の作った喜びで釣り、いつの間にか自然や生命に驚けない子どもを作ってしまったらしい。

他方、同じだけボーイスカウト歴のある別の子は、海についたとたん小魚や小エビを捕まえて楽しみ、キャンプファイヤーのためにと流木を集め、いかにも海を楽しんでいた。なんと対象的な。この子は逆に、海をとことん堪能していた。

子どもの「のめり込む」ことに付き合うことは、とても大切なことであるらしい。「のめり込む」を止められると、ある時から諦めてしまう。諦めるために「大したことじゃない」と思い込むようになる。そのため、それを見ても「見たことがあるよ、そんなもの」と冷めた目で通り過ぎてしまう。

こうなると、全てが「路傍の石」化する。私達は道端の石ころに気をとめることはない。視界に入っていても、見えているのに見えないことになる。「のめり込む」体験が欠けると、学習においてとても重要な力を失うことになる。それは、観察力。

路傍の石と言えば、私自身の体験を。水晶という宝石は、石英という石の仲間で、それの透明度の高いのが水晶と教えてもらった。石英がどんなものが知ってからは、私は視界に入った石英をすぐに見つけることができるようになり、それを手に取っては透明度を調べるようになった。

クギで削ろうとしたらクギの方が削れて驚いた。「石英は鉄より硬い!」それから、石には硬いものと柔らかいものがあるということも分かってきた。水晶という宝石に興味を持ち、その仲間である石英にのめり込んだ事がきっかけで、石に関する解像度が劇的に上がった。観察力が身についたように思う。

ナイチンゲールの言葉に次のようなものがある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
ただ体験しても、観察しなければ気にとまることはない。すると、学習として積み上がらない。

乳幼児は本能的に「のめり込む」仕組みがあるようで、何か一つのことにのめり込み、徹底してそれが何なのかを追究することで、以後の学習の座標軸にするのだろう。私が石英を座標軸にして様々な石に興味を持つようになったように。のめり込んだものが座標軸になる。

しかし大人はついつい、同じところにとどまることがつまらなくて、「あっちにもっと面白いものがあるよ、さあ行こう」と急き立てる。このため、子どもはなかなかのめり込むチャンスを持てなかったりする。これがあまりにも相次ぐと、子どもは全てを「路傍の石」とみなし、興味を持つことを諦める。

YouMeさんは幼稚園に子どもと一緒に通う際、子どもが側溝の水のせせらぎをじっと見て動かなくなったり、道端に何かを発見して動かなくなったりするのに、なるべく付き合うようにしていた。子どもはそうしてのめり込むことで、五感を総動員して学んでいるのだな、と考えていたから。

お陰で遅刻することが多く、重役出勤していたようだけれど。
でも、その「のめり込む」体験があるからこそ、水はどう流れるものなのか、水面で光がどうきらめくのか、水辺の独特の香りをかぎながら、五感で膨大な情報を吸収する。これが後に、文字の学習の肉付けとなる。

水、と聞いただけで、じっと見つめた側溝のせせらぎのにおいやきらめき、水音が再現される。あるいは海の波の音、塩味、磯の香り。「水」というたった一文字のキーワードから、豊かな体験が呼び覚まされる。それは「のめり込む」体験があればこそ。

人工知能による学習では、よくビッグデータという言葉が出てくる。大量の情報を与えて学習させる。しかしどうやら人間は、「のめり込む」体験を座標軸にすえ、それと似ているか違うかを分類することで急速な学習を可能にしているらしい。

幼児が、その人生経験の短さゆえに大してプラスチックや陶器の数を見たことがなくても、プラスチックや陶器を見分けることができるのは、「のめり込む」ことによる、どっぷり浸かりこんだ体験が観察力を研ぎ澄まし、見当つける力となるかららしい。

だとしたら、大人はなるべく子どもの追究の時間、「のめり込む」時間をつきあってやることが大切だろう。そしてできれば、子どもがのめり込む間にどんな発見をしたのか、どんな工夫をしたのか、どんな挑戦を試みたのか観察し、その変化を楽しむとよい。すると子どもは。

大人が自分の工夫や発見、挑戦に気づいてくれたことが嬉しくて、さらにのめり込む。気づいてなかったことはないかとさらに鵜の目鷹の目で探しまくる。そして工夫や発見、挑戦した喜びを大人と共有したいと思い「ねえ、見て見て」と声をかける。大人はその様子に驚き、面白がるとよい。

そうした大人の接し方が、子どもの観察力を劇的に上げ、物事を観察する解像度を上げる。大人は先回りする必要はない。子どもが工夫し、発見し、挑戦することに驚き、面白がれば、さらに工夫し、発見し、挑戦しようとする。それが子どもの観察眼を磨くことになる。それで十分。

願わくば、子どもが「のめり込む」とき、そばにいて、さっきと違う「差分」に気づき、驚き、面白がれるように。すると、子どもの観察力はますます増す。それはいずれ、大人になっていく際の豊穣な土壌となる。土が肥えれば肥えるほど、豊かな緑が繁茂することだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?