立派な人間のフリが「裸の王様」化を促す

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)、たぶん第17弾。
完璧な人間のフリ、立派な人間のフリ、賢い人間のフリをすると、「裸の王様」化しやすくなるように思う。自分をそのように扱えという無言の圧力を与えて、実際、周囲もそれに合わせるから。では、周囲は尊敬してそうしてるのかというと。

必ずしもそうではない。相手がそう望んでるようだからそれに合わせとこう、という感じ。相手の望んでない接し方をすると腹を立てそうだな、説教くらいそうだな、と思うと、面倒を回避するために相手に合わせる。この結果、フリでしかないと周囲に見抜かれてるのに、事実自分は尊敬されてると勘違い。

自分は立派な人間である、というフリをすると、相手に一定の態度をとるよう合わさせることになる。関係性が一方的になる。一方的関係性。これだと、自分の真の姿がどこにあるのか分からなくなってしまう。賢いフリ、立派な人間のフリをすることは、実は損をすることじゃないかな、と思う。

抜けてるところ、間抜けなところ、欠点のあるところをさらけ出すと、関係性は相互的になりやすい。相手に補ってもらったり、ツッコんでもらったりできるようになるから。お互いに欠点を補い合う関係性。相互的関係性を作りやすいように思う。

具体的なお名前を出して恐縮なのだけど、貴乃花氏は、超人的存在になろうとしたがために「一方的関係性」になってしまったのではないか、という気がする。膝を痛めてなお土俵に上がり、優勝を決めた一番には、首相をして「感動した!」と言わしめた。まるで超人のようだった。

しかしそれで、貴乃花氏は「超人であらねばならない」と思い込んでしまったのではないか、という気がする。常にストイックに振る舞い、ストイックで自分の利益など考えないからこそ、自分の意見は相撲界を劇的に改善する最上策だと信じて疑わない感じになってしまったように思う。

そして他の親方たちを守旧扱いし、自分の改革案を飲むしか道はないのだ、という一方的、硬直的な姿勢になってしまった。まさに一方的関係性。
他の親方たちは、改革の必要性を認めつつも、いかにみんなにメシを食わせるか、という、俗なようだけど大切なことも考えていた。

貴乃花氏の、「一方的関係性」な姿勢が、結果的に自分を追い詰めた格好のように思う。
私は、超人なんていないと思う。もし超人がいたとしても、超人というイビツで欠点の多い人間でしかない、と思う。超人だから凡人を見下げてよい、無視して良い、なんて傲慢さは滑稽だと思う。

私達1人1人が、人間でしかないのだと思う。同じ人間同士なら、相互に話し合い、どんな道を選べばよいか、話し合って決めていくしかない。
どうも小泉氏が首相になって以来、敵対勢力を守旧派、既得権益層と見なし、一方的に自分の意見を呑ませようという雑な人間が増えた。しかし。

あんたも人間やっちゆうねん。超人ちゃうねん。こっちも人なり、あんたも人なり。人が人と対したら、自分だけが正しいなんて思わずに、相手の話も聞き、自分の意見も伝え、その相互の関係性の中で新しい道を開く必要がある。

話し合いは妥協しか生まない、それは結局談合にしかならない、と思う人もいるかもしれない。確かに話し合いは気をつけないとただの談合になり、守旧で終わることもある。けれどそこは、ソクラテスの産婆術がある。相互に話し合うことで新しい世界が開ける対話の仕方。

産婆術なら、自分も相手も思ってみなかったような新しいアイディアが思いつく。みんなで「それ、やってみよう!」とワクワクする形も作れる。個による改革は独りよがりになりがちだけど、産婆術による集団的改革は一斉だから勢いがすごくなる。

プロタゴラスやゴルギアスのような、超人的天才は結局、世界にさほどの影響を及ぼすことができなかった。しかしソクラテスの弟子であるプラトンは、ソクラテスの産婆術の実践の場としてアカデメイアを運営し、アリストテレスなどの俊英を生み、世界史を変えていった。

互いに刺激しあい、互いに高め合う。相互的関係性だからこそ、全員が底上げされる。超人を気取る人は、「凡人が何人集まろうと凡人」と見下しがちだけど、産婆術を導入したら超人より私はすごいことになると考えている。

相互的関係性と産婆術を組み合わせること。そうすれば、超人のフリなんかしなくてよい。欠点だらけの人間でも産婆術で高め合えば、非常に面白いことになる。そろそろ超人思想からも卒業したらよいのではないか、と思う。

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