「体の声」のデータベースづくり

息子とキャッチボール。つい「今のはこうだったよ」「さっきはこうしてたよ」「ああしたほうがいいよ」と余計な口出ししたくなるけど、グッとこらえる。もし口出しすると、私の言葉に縛られて「体の声」が聞こえなくなるから。体の声に聞き耳立てているのを邪魔しないように気をつけている。

私自身が子どもの頃、「今のはここがダメだ」「違う!さっき言ったろう!人の話をきちんと聞け!」「お前は本当にどんくさいな」という声かけに囚われ、言われたことを必死に実行しようとして「体の声」が聞こえなくなり、ますます動きがぎこちなくなって頭が真っ白、呆然としてしまう子どもだった。

意識過剰になりやすい、考え込みやすいタイプは、言葉に縛られ、「体の声」が聞こえなくなってしまいやすい。体の声が聞こえなくなると体を「意識」で操縦しようとしてしまう。しかし「体の声」は「無意識」にしか聞こえない言葉。意識は平気で「体の声」を無視する。すると体の座標軸を見失う。

その結果、体の動きがぎこちなくなる。ぎこちのなさだけはよくわかるから、意識はますます「ヘタクソ!こうだよ、こう!」と命令する。しかし「体の声」というフィードバックの情報を聞いてやしないから、ただ命令するばかり。体の座標軸を見失ってるから、もはや意識の命令は空回りする。

学校の勉強は得意だがスポーツは苦手、運動全般が苦手、という人は、こうしたパターンが多いように思う。勉強は意識して繰り返せば習得しやすいものだから、その成功体験を身体能力にも適用してしまい、意識で体を操縦しようとする。しかし体をうまく動かすには「体の声」を聞かないと補正ができない。

勉強と同じように意識の命令で身体を操縦しようとすると、「体の声」が聞こえなくなるから、体の座標軸を見失い、ますます動きがぎこちなくなる。意識が命令すればするほど動きはぎこちなくなり、うまくいかないことに絶望し、「運動は嫌い、スポーツ大嫌い」になってしまいがち。

言葉を変にかけさえしなければ、体の声はよく聞こえる。身体の声と心がよく相談できるようになる。だから変に声をかけない方が良いと私は考えている。息子はどうやら私と同様、言葉に縛られやすいタイプのようだから、体の声のデータベースが出来上がる前に変に声をかけることはやめようと考えている。

体の声へのデータベースが十分に充実してくると、ようやく言葉が大きなヒントになるケースも出てくる。しかしありとあらゆる試行錯誤を繰り返したデータベースがないうちに言葉をかけても、むしろデータベースの蓄積の邪魔をすることになりかねない。

様々な体の動かし方の試行錯誤を繰り返し、その都度体の声を聞く、そうしたビッグデータが蓄積すると、初めて言葉からヒントを探ることが可能になる。蓄積がないのに言葉を与えることはビッグデータが無い人工知能に命令を下すのに似ている。何の役にも立たない。

息子は妹が生まれて以来、外遊びの機会が減り、インドア派になってしまったきらいがある。最近は中日ファンになったことで野球好きになり、キャッチボールを大変喜んでやるようになった。体の声を蓄積するその機会が減ってしまった過去の分、今はひたすら息子のデータベース作りを手伝おうと考えている。

すると仮説通りだったのか、最近は息子の体の動きがスムーズでなかなか良い球を投げるようになった。ボールをキャッチするのも非常に上手になってきた。羽根つきの感覚がバッティングにも通じたのか、バットをボールに当てる確率も結構高い。球技全般が苦手だった私と大違い。

私は見本も見せようと思わない。そもそも、見本を見せるだけの腕が私にないことも大きいのだけど、受け手である子どもの中に「体の声」のデータベースができてないと、見本を受けとめるアンテナも立たない。たから、まずは「体の声」との対話を邪魔しないことに気をつけている。

私ができることは、いい球が返って来たときに驚きの声を上げながら「ナイスボール!」と喜び、ボールをうまく受けとめたら驚いて「ナイスキャッチ!」と喜ぶ。驚き、楽しむことで、息子が楽しくキャッチボールできるようにするだけ。好きこそものの上手なれ。

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