「君、オモロイやっちゃな」という他者肯定感が自己肯定感を固める

自己肯定感について、パート2。
西加奈子さん「きりこについて」の主人公は両親からかわいい、かわいいと言われて育って、自分の可愛さを微塵も疑わない「自己肯定感」を持っていた。しかし学校に通うようになると、第三者には可愛くないらしい、という現実を突きつけられ、混乱する。

ほめて育てて自己肯定感を高めよう、という話があるけれど、親がいくらほめても第三者が同じ評価を下さない場合、ひどい場合は「親に騙された」と感じる。親が与える「自己肯定感」は「客観性がない」と感じ、第三者からの評価こそ客観性があると考えると、自己肯定どころか自己否定に一気に転落。

現実離れした自己肯定感は、「どうも自分はそうでもないらしい」という現実にぶち当たったとき、一気に崩れ去る。崩れ去る際に、そこは否定しなくてもいいんじゃないのと思うものまですべて破壊してしまう。ほめて作られた自己肯定感は、どれだけ堅固に作ったようでも他者からの否定であっさり崩れる。

自己肯定感という音読み熟語が外来語みたいでしっくりこないから言い換えると、「自分は生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ」という感覚のように思う。この感覚を得るには、むしろ「ほめる」って有害なんじゃないか、とさえ思える。現実ではないことをほめられても、それは騙された感。

裸の王様に「素晴らしいお召し物ですね」とほめるようなもの。ほめて作られる自己肯定感は、裸の王様をいい気にさせる、詐欺感があるように思う。それよりも大切なのは、欠点もあり、サボることもあり、嫌なところもたくさんあるそんな自分を丸ごと肯定できることではないか。

品行方正で礼儀正しく成績優秀でないと認めてくれない第三者ばかりだと、そうでない本当の自分は否定せざるを得なくなる。必死になって外面的にそうであろうとするけれど、そうではない自分の真の姿を思い起こしては自分に幻滅する。これでは自己否定ばかり育つのではないか。

自分を真に肯定するには、だらしなく、サボりがちで、やらなきゃいけないことも投げ出しがちで、イイカゲンな自分を肯定することなのではないか。そしてそんな自分をも、家族ではない第三者の誰かが「お前、オモロイやっちゃな」と肯定してくれると、「あ、自分を肯定していいんだ」と思えるのでは。

「生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ」という感覚は、家族ではない第三者から、「だらしのない時のあなたも全部ひっくるめて、大好きですよ」と受け入れられることで堅固になるのではないか。この感覚は、家族だけでは提供できない。

子どもはわかっている。親はいずれ先立ち、親のいない世界で自分は生きていかねばならない。でも、親以外の赤の他人に受け入れてもらえるか不安がある。本当にやっていけるのか、と。
そこの滑りをよくしてくれるのが、他者肯定感だと思う。第三者から、ありのまま肯定されること。

できれば、全くの赤の他人から、親に頼まれたわけでもなくで、「君、オモロイやっちゃな」と丸ごと肯定された経験が複数あると、「あ、無理して肩肘張らんでも、この世には自分をそのまま肯定してくれる人がいるんだな」と思えるのではないか。

ところがこのところの日本、肯定を与えるのにえらくハードル上げる。成績が良くなければならない、品行方正でなくちゃいけない、などなど。これらの基準を満たさなければ肯定は与えない、というケチ臭さがある。もしかしたら日本の若者の自己肯定感の低さは、他者肯定感を提供するハードルの高さかも。

「君、オモロイやっちゃな」と、丸ごと肯定してくれる第三者がもっといたらいいのに。できれば赤の他人もいいところの人間がそうして面白がってくれるとよいのに。すると、若者は「生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ」と思えるのではないか。

そこから一歩を踏みでる勇気が湧く。勇気が湧けば、どうせならあっと驚かしたいなどの欲が湧いてくる。まずは子どもを丸ごと「オモロイやっちゃな」と肯定する赤の他人、第三者になって頂きたい。そういう人が増えると、若者は一歩を踏み出せるようになるのではないか。

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