マジックワードの多い教育界

その言葉を聞いた途端、思考が停止してしまう言葉をマジックワードと言うらしい(日本だけに通じる使い方らしい)。教育界ではこのマジックワードがとても多い。例えば「子どもは愛情をもって育てる」「子どもは時に厳しく接しなければ」「わかりやすく教える」これらは問答無用に良しとされている。

でも、私には何を言っているのか分からない。具体性がない。どんな場面でどう接することを指すのかも分からない。そしてそれらの対応が果たして効果があるのかも怪しい。なのに「そうだよね」とみんながうなづき、文句なしに賛同する言葉になっている。その手のが教育界には非常に多い。

孫のことを、まさに目に入れても痛くないようなかわいがりようで愛情深く育てたおばあちゃんがいた。その子は、白昼夢を見ているような子どもになった。食べるのも着替えるのも全部おばあちゃんがやってしまうので、何もさせてもらえないこの子は心の中のお花畑におでかけするようになってしまった。

「愛情深く育てる」というマジックワードが正しいなら、その子は問題なく育つはずだが、巷間で言われる「おばあちゃん子は三文安い」になってしまった(おばあちゃんに育てられた子が必ずこうなるわけではない)。では、厳しく育てたらよいのか。「厳しく育てる」もマジックワードだ。

箸の持ち方も厳しく指導し、勉強もするようにビシバシ指導する親がいた。子どもが小学生の間はまだしも親のいうことを聞いていたけれど、中学生くらいになって猛反発、手がつけられなくない不良になった。

「愛情深く育てる」「厳しく育てる」のうまくいかなかった具体的事例を観察すると、不思議な共通点が見える。親(あるいはおばあちゃん)が主体的能動的で、子どもが受動的な存在であること。
親「が」愛情深く、あるいは厳しく。それに対し、子どもは受け身な存在。親のやりたいようにやられている。

もし日曜大工の教室に行って、自分の作りかけた椅子のまずいところを講師が全部やり直し、しかも完成させたとしたら、その椅子に愛着がわくだろうか?むしろ「講師の癖に大したことないな」と悪態つきたくなるだろう。それより。

たとえ釘が曲がっていても、椅子がギイギイ言うようであっても、最初から最後まで自分の手で作ったイスなら、愛着が強いだろう。講師がきれいにまとめても、それは生徒の自分にとっては受動的な話になる。しかし下手でも自分で最後までやり遂げたら、能動的でいられる。

自分が主体的能動的に働きかけることができた、という感覚を私は「能動感」と呼んでいるのだけれど、様々な具体的事例を観察すると、この能動感を子どもが味わえているかどうかが極めて重要だ、と感じている。なのに、多くの教育マジックワードでは、教える側が主体的能動的になっている。

私が空疎に感じる教育マジックワードは、子どもの姿が見えない。生き生きとした具体的な子どもの様子が見えてこない。そうしたマジックワードは、私にはさっぱり理解できない。教育界の言葉は、一度、すべて具体的事例にひもづけ直した方がよいのでは。

教育系の論説では、専門用語が多用されているものが多い。他方、私は専門用語をなるべく避けている。専門用語を使うと分かりにくいというのもあるのけど、もう一つ、使い古された専門用語には独特のイメージがつきまとい、言葉に引っ張られて具体的に考える思考の邪魔になることが多いから。

たとえば最近流行の教育系マジックワードでは、自己肯定感がある。自己肯定感を高めることは文句なしに良い、という感じでもてはやされ、かなり安易にこの言葉が使われている。しかし、個別具体的な事例から考えていくと、どうもそうは思えないケースが見えてくる。

知人がある日、「日本の若者は自己肯定感が低いというけれど、そういう人は自己評価が高すぎるんじゃないだろうか」と指摘して、私は膝を打った。オレはこの程度の人間じゃないはずだ、もっとすごいパフォーマンスを発揮できるはずの人間だ、と自己評価が高すぎて、現実の自分が受け入れられない。

自己肯定感が非常に高かった子が、ある日、クラスのみんなからシカト(無視)されてあっさり自己肯定感を失ったケースというのは結構目に付く。日本文化圏ではどうも、他者の評価に左右されない確固たる自己肯定感というのを育みにくいのかもしれない、というのが具体的事例から見えてくる。

キリスト教圏では、神と自分、という形でとらえ、自己肯定感を育むということは、神から愛されているという感覚に近いものらしい。日本みたいに良くも悪くも八百万の神だと、唯一神に愛された確固たる自己、という自己肯定感はどうも確立しにくいらしい。

個別具体的な事例を見れば、様々な教育系マジックワードも「おかしくない?」と感じるものが多々ある。専門用語もしかり。専門用語だけで話を構築すると、個別具体的事例が捨象され、空中戦の会話になる。事実上、何も語っていないことになりかねない。

もっともっと、個別具体的な事例から考えを起こした方がよいように思う。そして、決して抽象的なところだけで考察を進めないこと。何度でも個別具体的な事例に舞い戻って考え直すこと。それをしないと、教育系の話はどうも抽象的でフワフワした話になりがちな気がする。

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