ノブレス・オブリージュの消長

「以前はノブレス・オブリージュ(恵まれた境遇の人間が、恵まれない人のために社会に還元しようという志)ということをよく言ってたのに、いつの間にか言わなくなってしまった」と知人が。
恐らく、大きな原因は竹中平蔵氏をはじめとする新自由主義の影響だろう。

竹中氏は「これからは競争社会、努力し能力のあるものは恵まれ、努力しないものは蹴落とされる。これは国際社会では常識、グローバル化の流れは誰にも止められない」と唱えた。これにより、他人に気遣いしているようでは自分が蹴落とされる、自分の身を自分で守るしかない、という論理が広がった。

90年代までの社長は、自分の個人資産を担保にしてでも従業員の生活を守ろうとした。しかし竹中氏の論理は、従業員を見捨て、自分だけ守ろうとする資産家に言い訳を与えた。他人を救おうとすれば自分まで沈む、それなら自分だけでも生き残ろう、と。

正社員を減らし、契約社員や派遣社員を増やすことで人件費を減らし、経営を上向かせるのが経営者の手腕、とほめたたえられるように。しかしこれにより就職氷河期は長期化し、生活不安を抱える人が増加し、消費は減り、企業は売上を減らし、さらなる労働条件の悪化につながった。

「強者でなければ生き残れない、人を見捨てねば強者にはなれない」という論理を竹中氏が広げたために、人を見捨てることを正当化したといえる。しかしそうして人を見捨てたことで、多くの人たちを低賃金化し、消費を減らし、企業の業績は伸びず、という悪循環に陥った。

せめてノブレス・オブリージュだけでもあれば、強者は強者であり続けるとしても、庶民をここまで苦しめずに済んだのではないか。デフレ経済に終止符を打つことはもっと早くに達成できたのではないか。ノブレス・オブリージュさえも失わせる論理が、日本をここまで弱体化させる原因ではなかったか。

1年前の今頃、私は烈火のごとく怒っていた。所得倍増と言っていたはずの岸田首相はいつの間にか資産所得倍増などと言い出し、安倍元首相死亡から少しなりをひそめていた竹中氏がまたぞろ元気になりだし、それとほぼ同時に投資で儲けてるらしい連中が格差社会を当然視する発言を繰り返すようになった。

格差社会が憎いなら自分も投資して儲ければよい、それができないのは能力不足、自分の能力不足を棚に上げて叫んでもそれは負け犬の遠吠え、と言わんばかりの批判であふれかえっていた。格差社会を当然視し、自分の能力を誇り、貧しい人たちを見下す姿勢を当然と考える人たちに、私は警告を発した。

あなたたちは死にたいのか?家族を危険にさらしたいのか?と。何故か彼らは、貧しい人がどれだけ困窮しても犯罪をおかすことはない、警察が自分たち金持ちを守ってくれる、犯罪をおかすくらいなら貧しい人は我慢する、だから自分たちは安全だ、と思いこんでいた。

私は2つの話をした。一つは戦前、女中が資産家の赤ちゃんを地面に叩きつけ、命はとりとめたものの、大人になっても子どものような背丈までしかならなかった人物の話。
もう一つは、あまりにつらく困窮した生活をした人は、牢屋ぐらしのほうがマシ、殺人罪で死んだほうがマシと考えるという話。

この話は、若手官僚(今や中堅だが)たちが立ち上げた官民メーリングリストにも投稿した。ここは国会議員もそこそこ読んでる。
やがて、格差社会を当然視する意見は下火となっていき、何とか給料を上げなければ、という空気にシフトし始めた。私の声がどれだけ効果あったかわからないが。

私は、貧富の格差をなくせ、とまでは考えていない。貧富の格差が固定化する社会は望ましくないとは考えているが。許せないのは、弱者を見捨てて平気な顔をする発言だ。そうした発言がはびこることは弱者を追い詰めるだけでなく、翻って富めるものも無事ではいられなくなる。

私は1年前、「あなた達、富める者も死んでほしくないから言ってる」と伝えた。貧しい人にも死んでほしくない。貧しい人を放置することで富める人も自分や家族の命が脅かされる社会でもあってほしくない。社会は、助け合って初めて強靭になるのだと私は考えている。

ノブレス・オブリージュは、誰もが苦しまずに、ある程度楽しく生きられる社会を維持する上で不可欠。そのことを富める人たちは忘れないでほしい。あなた達の豊かさは、一定程度還元しなければ維持できないものだということを、忘れないで頂きたい。

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