驚くポイント 工夫・発見・挑戦と努力・苦労

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)たぶん第21弾。
人との関係性を良好なものにするのに「驚く」が有効であることを指摘した(https://note.com/shinshinohara/n/n60565c84afbb?sub_rt=share_b) ところ、「キャバ嬢の『さしすせそ』だね」と指摘する人複数。確かに「さしすせそ」も驚く形態。でも、どこに「驚く」かは注意が必要。

「さしすせそ」の問題は、相手の「存在」をほめ、自分の「存在」をおとしめる形になりがちなところが問題。自分を無知で無能で未熟で地位もない「存在」であるかのように規定し、相手を、知識があって経験があって社会的な地位もあって尊敬される「存在」として扱い、奉る、というニオイが濃厚。

こうした形の「さしすせそ」は、相手を図に乗らせ、傲慢にさせる。そしてこちらは見下され、バカにされる。これがキャバレーやスナックのようにお金を落とす場所であるなら、それもこみの仕事として割り切れるかもしれないが、そうでないならかなりキツイ関係性に陥ってしまう。

「存在」に驚くと、相手は「そうだ、俺は偉大な存在なのだ、俺をあがめ奉れ」と、態度が尊大になってしまう。しかもこちらを無知な愚か者扱いし、バカにしてくる。こんな関係性はつらすぎる。仕事でもない限りやってられない。だから、「存在」に「驚く」のはやめておいたほうがよい。

だから私は「驚く」ポイントを絞ったほうがよいように思う。特に工夫、発見、挑戦の3つ。付け加えるなら、努力、苦労。この5つに「驚く」ポイントを絞ったほうがよいように考えている。これらに「驚く」場合は、関係性を対等に保つことができ、しかも良好なものに維持できると考えている。

芸術指導してる先生が面白いことを言っていた。技術をほめるとその学生はその技術ばかり駆使しようとして、工夫がなくなるのだという。確かに私達はほめられたものがあるとそれを繰り返して、またほめられようとする。だけどそれでは新味がなく、つまらないものになってしまう。

だから私は工夫・発見・挑戦に「驚く」ようにしている。すると、常に新しい工夫や発見、挑戦でないと驚かすことができないことに相手は気づく。だから新しい工夫、発見、挑戦を続けようとする。このため、常に進化し続けることになる。こちらも新鮮に驚かされることになる。

ここで「ほめる」としていないことに注意。工夫・発見・挑戦を「ほめる」のだと、美大の学生に技術をほめたのと同じことになって、同じ工夫を繰り返したり(繰り返した時点で工夫ではないが)、過去の発見や挑戦をいつまでも誇るようなことになりかねない。過去に安住してしまう。

私は、ささいなことでもいいから、未来に向かって新しい工夫、新しい発見、新しい挑戦に挑んでほしいと考えている。その点、「ほめる」と違って「驚く」は、同じことには驚きにくい。相手も「同じ工夫では驚かすことはできないな」と察する。だから驚かしたい場合は、常に新しい工夫が必要になる。

それに、工夫や発見、挑戦は、能動的に動かないとできないこと。だから、驚かそうと企む場合、必然的に能動的になる。こちらとしては、能動的に動き出したことだけでも奇跡。自分は相手になりかわれないのだから。なのに能動的に動き始めた!これは奇跡と言ってよいように思う。

不思議なもので、こちらが「面白い工夫ですねえ!」「よくこれ発見しましたねえ!」「これ、よく挑戦しようと思いましたねえ」と「驚く」と、まだまだこんなもんじゃないぞ、と、能動的にさらに驚かしたくなるらしい。だから、かなりの確率で能動的になる。「驚く」は、能動性を引き出す呼び水。

ところで、「継続は力なり」とよく言われる。新しい工夫や発見、挑戦は重要だが、コツコツと練習を続ける粘り強さも重要。そういう粘り強さを引き出すにはどうしたらよいのだろう?そこで私は、努力や苦労に「驚く」ようにしている。

「つらい日もあるだろうに、よくくじけずに努力しているねえ」「いろいろ大変だろうに、苦労をいとわずに、よく踏ん張っているねえ」と驚きの声を時々かけると、気合を入れ直して「もうひと踏ん張り頑張るか」となるらしい。

「工夫・発見・挑戦」に驚くのは、常に未来に向かって能動的になるよう促す触媒に、「努力・苦労」に驚くのは、継続する力を促す触媒に。そしてこれらの「驚く」は、相手の能動性を引き出しつつ、相手への経緯も示すことができ、気持ちよく対等な関係性を築くのにちょうどよいと考えている。

常に自分の新しい工夫や発見に驚いてくれる人、自分の普段の努力や苦労に讃嘆の声を惜しまない人、こういう人を、人間は大切にしたくなる生き物らしい。いつも自分を見てくれている、観察してくれている、と感じるからかもしれない。

しかし、「存在」をほめる・驚くの場合、実は存在そのものではなく、外面的なことを評価することになる。社会的地位だったり、業績だったり。それらはその人そのものというより、外側の飾り。その人そのものではない。だからか、それらをほめても不安を覚えるらしい。

不安だから、折に触れて「俺はすごいんだ」と、存在の凄さをアピールしようとしてしまう。面倒くさい人になってしまう。自分そのものではなく、自分の外側の飾りが認められているだけ、ということに、どこか気づいているから、どこか不安が残ってしまうらしい。

しかし新しい工夫や発見、挑戦は、内側から湧き出る能動性がなければ生まれない。それで驚かすことができた、ということは、外面的なものをほめられたのとはまた違う満足感を得るらしい。しかも新しい工夫や発見、挑戦を考えることは楽しい。楽しいことで驚かせるなんて、二重に楽しい。

だからか、工夫・発見・挑戦に驚く人がいると、それに驚いてくれる人がいないところでもそれらに夢中になるようだ。ひとりでやっていても楽しいから。時折人に見せて驚かす機会があれば十分。むしろ熱中したいから、邪魔が入らないよう、一人で工夫したり発見したり挑戦するようになる。能動的になる。

こういう能動的な人は、見ていて楽しい。こちらも何か工夫したりして楽しもう、という気になる。互いに楽しい時間を過ごすようになるから、関係性も良好になりやすい。
「工夫・発見・挑戦」とか、「努力・苦労」など、驚くポイントを5つ並べたけど、これらを一言で言い表すことができるように思う。

「能動性」に驚く。
相手が能動的になるかどうかは、本来、他人にはどうしようもない。本人が能動的になるしかない。もし相手が能動的になつたとしたら、それは奇跡だと思う。驚かずにはいられない。
工夫や発見、挑戦は、本人が能動的にならなければ起きなかったこと。努力・苦労をいとわないことも。

そうした能動性が生まれた奇跡に驚く。すると不思議なもので、驚く人がいると、能動性は促されるものらしい。人間は人を驚かすのが大好きな生き物だから。「また能動性で驚かしてやろう」と企むようになるらしい。このため、驚く人がそばにいると、能動性がどんどん高まる。

赤ちゃんは、自分がいろいろ工夫し、挑戦し、発見していく様を見て親が驚く様子を見て、ますます意欲的に能動的になる。もしそばに、その成長ぶりに驚く大人が一人もいなければ、赤ちゃんは順調な成長をするかは疑わしい。もし無反応なら、赤ちゃんの成長は大きく阻害される気がする。

息子は生まれたての頃、右足は力強かったが左足はあまり動かさなかった。私は息子の足をいろいろ弄り回しているうち、膝を内側気味に曲げると反射的に足を伸ばそうとすることがわかった。その時私は「お!」と驚きの声を上げた。また内側に曲げると伸ばそうとする。「お!」と驚く。

これを繰り返すと、赤ちゃんは「足を伸ばすと『お!』という驚きの声か出る」ことに気がつき、その反応を再現しようと意識し始めたようで、次第に意識的に足を伸ばしてキックするようになった。能動的に足を動かし始めた。

少し赤ちゃんが大きくなって、バウンサーに乗せた。しかしユラユラ揺らしても赤ちゃん、退屈そう。私も退屈。で、赤ちゃんの足裏に腕を当てた。赤ちゃんが何かのはずみで足を伸ばすとバウンサーが揺れる。私は「お!」と驚きの声を上げる。すると赤ちゃん、それらの反応が面白くなったのか。

意識的に足を伸ばし、バウンサーを揺らし、私の「お!」を引き出そうとし始めた。最終、バウンサーはものすごい勢いでバンバン揺れた。赤ちゃん、キャッキャと嬉しそう。
赤ちゃんのこうした反応を見て、能動性が発生したことに驚きの声を上げると、能動性はますます高まることに気がついた。

その学生はもう2年も卒業を逃していた。卒論の季節になると出てこなくなる。そうした学生が私のもとに来た。何を聞いても「わかりません」しか返ってこない。無気力。能動性のかけらも見えなかった。これでは卒論研究どころではない。そこで私は、まず能動性の回復を最優先に考えた。

「この現象を見て、気がついたことある?」と尋ねた。「わかりません」と、案の定の答え。私は「うん、僕も初めて見る現象だからわからない。わからない者同士、気付いたことを見つけていこう。ここ、どうなってるかな?」と、具体的な箇所を指摘して、見たままを言ってもらった。

「・・・こうなってると思います」と、オズオズ。私は「おー、そうだね。じゃあここは?」と、どんどん問いを重ねた。どんな発言であってもバカにせず、面白がるようにした。すると安心したのか、問いに素直に答えてくれるように。そのうち、

私の予期しなかった見方で答えてくれることに出会うことに。私は素直に「あ、そういう見方はしていなかったな。なるほど」と、軽く驚きの声を上げると、先生も気づいていなかったことに気づけた、と感じたのか、能動性が高まってきた。こうした問いを毎日一定時間繰り返しているうち。

問わなくても学生の方から「ここはこうなっていると思います」と発言してくれるように。私はそうしたら発言の一つ一つを面白がり、着眼点の新しいものがあると驚きの声を上げ。やがて、学生から「こうした実験やってみたいです。やってもいいですか?」と言い出した。私は嬉しくなって、「やって!」

相手の発言を何でも面白がり、相手の中に能動性が発生した「奇跡」に気づいたら驚く。これを繰り返していくと、人間は、失ったはずの能動性も取り戻せるらしい。その学生は立派な卒業論文を書いたばかりでなく、修士に進み、就職も成功した。

能動性の発生は、他人にはどうしようもない。ただ驚くことしかできない。だけど、能動性の発生に驚く人がいると、能動性が高まるように人間はできているらしい。そして能動性というのを細かく見ていくと、「工夫・発見・挑戦」「努力・苦労」の゙5つになるように思う。

その学生も、能動性を回復したあと、時折私は感嘆する形で「もう何も言わなくても自分で実験計画策定して、自分で計画して進めて、大したもんだなあ」と、その「努力・苦労」に「驚く」ことで、その能動性は保たれるようになった。どんどん自立していった。

なぜ自立できるのか?「驚く」が喜びを増幅させる効果があるとは言え、新しい工夫や発見、挑戦をすること自体が楽しいことに気がつくからだろう。また、努力し、苦労をいとわないことが、自分の能力を高めていることに自信がつくからだろう。

こうして、日々を新鮮な気持ちで成長し続けている人との付き合いは楽しい。互いに「工夫・発見・挑戦」「努力・苦労」に驚き合う関係性は、とても気持ち良く続けられるように思う。

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