「構造」を用意し、「関係性」を調味料に

「関係性から考えるものの見方」(社会構成主義)、たぶん第25弾。
ケネス・ガーゲン氏の、関係性から考えるものの見方には共感するところ多々ある。ただし、関係性というキーワードだけですべて解決するとも私は考えていない。「構造」も重要だと考えている。

スーザン・ストレンジ「国家の退場」で、権力には2種類あるという。関係的権力と、構造的権力。前者は、恐いボスが恐怖でもって子分を支配するもの。これは恐怖が及ぶ人数しか支配できないという限界がある。ガーゲン氏の唱える「関係性」というのも、そうした限界がある。恐怖でないにしろ、

他人に影響を及ぼし得る関係性というのは、人数に限りがある。関係性にはそうした限界があることを、まず把握する必要がある。
他方、構造的権力は。たとえば国家は、「ルールさえ守るなら日常を楽しんで暮らせますよ、破るなら牢屋に入って自由を失いますよ」と、ルールでもって「構造」を作る。

すると不思議なことに、大多数の人はルールを守る。自発的に。しかも場合によっては嫌々ではなく、進んで、楽しそうに。
具体的な例としてはサッカー。サッカーでは、手を使っちゃダメ、という、他のスポーツにはないきついルールが課されている。

手という非常に器用な部位を使っちゃダメ、という極端なルールを課したら、みんなが嫌がって参加しないのでは?と思いきや、サッカー人口は非常に多く、若い人もどんどん参加していく人気のスポーツに。みんな、嬉々として「手を使わない」というルールに従う。なぜなのだろう?

手を使わない、ということで、「不器用なはずの足をいかに器用に操るか」という課題の無限の可能性を感じて、やめられなくなるからだろう。
聞くところによると、バレーボールも足を使って構わないらしい。けれど足技が開発されることはない。器用な手を使えるからだ。

手を使っちゃダメ、というルールかあるからこそ、他のスポーツではありえないほど足を器用に動かす必要がある。そうした技を駆使するという新しさに夢中になるのだろう。人間は、ルールが禁じる不自由の中にも、工夫がいくらでもできる無限の自由が担保されてると、喜んでルールに従う生き物らしい。

だから、制限とか不自由というのを、すべて否定する必要はない。俳句は五七五という縛りがあるからこそ面白い。縛りの中の無限の自由、無限の工夫の余地を感じて、のめり込むのだろう。むしろ制限があるからこそその中の工夫のしがいを感じる。楽しみをそこに見いだせるらしい。

野球でもバスケでも何でも、スポーツはあえてルールで制限する。しかし制限を課すことで、工夫しがいが生まれる。制限の中の無限の自由を見出して、楽しさを見つけやすくなる。人間にはそうした不思議な性質があるらしい。

ルールで、ある種の制限のある「構造」を用意し、その構造の中でなら無限に工夫のしがいがある自由が担保されてるなら、多くの人間はそれを楽しむ。のめり込む。むしろ命令したり、人と比較したりする「関係性」をもたらすと、やる気を削ぐことになりかねない。せっかく構造自体が楽しいのに。

だから原則、楽しくてならない「構造」を用意したら、変に口を出さない、関わろうとしない、ということが大切だったりする。子どもたちは変に大人が口を出さなければ、工夫をして楽しむ。
私が小さい頃、公園にいくと年かさのお兄ちゃんが「キックベースボールをやろう」と声をかけてくれた。

上は小学校高学年、下は3歳。体力差は歴然。だけどみんなで楽しんだ。3歳の子はホームベースにボールを置いて蹴り、守備は5秒数えてから一塁に投げるルールに。高学年の子には、ピッチャーが容赦ない高速ボールを。こうして体力能力差があってもみんなが楽しめるように工夫していた。

この子はうまくなったな、となると、厳しいルールを課した。ではルールを嫌がるかというと、厳しいルールを課されるほどうまいと認められた、と、むしろ嬉しそう。厳しいルールをむしろ誇りを持って受けとめ、その中で活躍しようと工夫を重ねていた。嬉しそうに。楽しそうに。

ルールは、「挑戦しがいのある課題」として設定されると、喜んでルールを受け入れつつ、工夫でどう乗り切るか、と燃え上がる。手を使っちゃダメ、という過酷なルールを課すサッカーが人気なのは、まさにルールが「挑戦しがいのある課題」になっているからだろう。

でも、こうした「挑戦しがいのある課題」があったとしても、ああしろ、こうしろと事細かに命令する声があれば、つまらなくなるだろう。「お前よりあいつのほうが上手い」と比較ばかりする人がいれば、嫌になるだろう。いくら「挑戦しがいのある課題」があっても、変な「関係性」があると楽しくない。

だから私は、楽しくなる「構造」、挑戦しがいのある課題が見つかりやすい環境さえ整えることができたら、あまり口を出さずに見守るだけにすることが望ましいと考えている。人は、命令されたり比較されたりさえしなければ、多くの課題を楽しく乗り越える生き物のように思う。

もし、どうしても「関係性」を持つことにするなら、「差分に気づく」(驚く)ようにするとよいように思う。人間はどうやら、自分の成長や工夫、発見、挑戦などに他人が気づいてくれると嬉しくなる生き物らしい。昨日よりも今日、できることが一つ増えたことに他人が気づいてくれると、嬉しくなる。

人間は赤ちゃんの頃から、他人が、差分に気づいてくれると嬉しくなるようにできているらしい。立った、言葉を口にしたという出来事が起きると、親は奇跡が起きたかのように驚き、喜ぶ。こうした様子を見て、子どもはまた親を驚かそうとするのだろう。差分に気づいてもらおうとするのだろう。

だから、幼児の口癖は「ねえ、見て見て」なのだろう。自分の成長に気づいてもらおうとして。昨日できなかったことが今日できたことに気づいてもらおう、驚かせてやろうと思って。
子どもは、あれこれ口やかましく言いさえしなければ、勝手に学ぶ。能動的に楽しく。

学ぶことを楽しめる構造、環境を整えれば、子どもは勝手に学ぶ。そして、差分に気づく、あるいは驚くと、それがますます促進される。関係性を持つなら、そうした関係性が望ましい。命令したり人と比較したりする関係性でなく。

学ぶことを楽しむ子は、その子にとっての最速で学ぶことになる。だから、楽しめるようにさえすればよい。「構造」が楽しみやすいものであれば、子供は勝手に楽しみ、学ぶ。関係性は、それを若干促進する触媒にとどめたらよいように思う。あまり手も口も出し過ぎない。

今の時代は、子どもに干渉し過ぎのように思う。しかも先回りするから面白くない。犯人を先に教えられた推理小説のように、クライマックスをバラされた映画のように楽しめなくなる。自分で課題を克服するのが楽しいのに。命令、比較と同様に、先回りも楽しさを奪う行為。

課題を克服する楽しみを奪わない。自力で克服する楽しみを大切に守る。そして四苦八苦して解決したとき、その「差分」に気づき、驚く人がいると、「でしょ!見た?やったね!」と嬉しくなる。楽しみが倍加する。

差分に気づくのは、驚くのは時折で構わない。楽しめる「構造」さえあれば、子どもは、人間は、勝手に課題を克服することを楽しむ。ただ、時折差分に気づいてくれる、驚いてくれる人がいると、楽しさは倍加する。そうした調味料くらいに、関係性を捉えたほうがよいのかもしれない。

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