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『切り取れ、あの祈る手を』。本を読むということについての所感(17/50)

久々の更新になりました。ここ数ヶ月休載していたのですが、採用・採用広報の方針見直しに伴い、公式プロジェクトとしての『就活de名著』は終了という運びで決定しました。

休載中の数ヶ月間、個人で続けようか、それともこのままさらっと終了しようかなど、色々考えてはいたのですが、今後は完全に個人で別テーマについて書いていこうかなと考えています。更新頻度はまだ未定ですが年明け頃から書いていこうかと思っており、その前の一区切りとして、本連載の最終回をお届けしようと思った次第です。

というわけで、今回のnoteは、プロジェクトとしてではなく私個人から読者の方にお贈りする『就活de名著』の最終回です。最後の本はこれにしようと初期から決めていたものがあり、この本をもって連載に幕とさせていただきます。

『切りとれ、あの祈る手を』。最後の本は、日本の哲学研究者、佐々木中氏による作品です。本作は革命について論じたもの。これまで歴史を通じて起こった革命の起源を文学に求め、読み、書くことがいかに世界を形作ってきたかについて書かれた本です。

佐々木氏によれば革命とは読むことであり、書き換えることであり、ゆえに文学であるそうです。突拍子のない言説である気もしますが、考えてみれば分からなくもありません。フランス革命ではルソーが引かれ、イスラム原理主義によるクーデターではコーランが引かれ、そういう意味では、革命とされうるものは全て、何かの根拠を持って現状を変え、新たな何かを書き、宣言することだと言えるような気もします(佐々木氏は本書の中で、特に昨今の暴力的なイスラム原理主義については、コーランの引き方を批判していますが)。

本書では、文学による革命の1つの例として、ルターによる宗教改革が取り上げられています。

16世紀、カトリック教会の汚職に反抗したキリスト教徒らが新派閥を多く作りました。うちひとつが後のプロテスタントになった話は有名ですが、それらの改革の先駆けとなった中心人物の1人がルターです。

95カ条の論題を提出したり、新約聖書のドイツ語訳を出版したりした人物であるということは頻出ですが、要するに彼が行ったのは、当時の法律の原典である聖書を読み、書かれてあることと当時教会で行われていたこととの乖離を指摘し、問題を多くの人に伝えるために、より多くの人の知っている言語に聖書を翻訳し、広めたということです。

聖書の証言か明白な理由をもって服せしめないならば、私は私が挙げた聖句に服しつづける。

当時の国会で、カトリック教会の糾弾を撤回するよう求められたルターの科白です。こうして一文にするとサラっと読めますが、当時にするととんでもないことです。ヨーロッパ最大の権力者に「あなたは間違っている、なぜなら聖典に書かれていることと矛盾していることを行っているからだ」と言い放ったわけですから。

もっともここまでは、悪を正す善というよく描かれる構図にすぎません。本書における解説の面白いところは、この糾弾に際してルターが聖書を読み込んだ、その行動に焦点が当てられているところです。

彼は読んだ。そして気づいた。この世界は、この世界の根拠であり準拠であるべきテクストに即していないのではないか、と。この世界の成り立ちの根拠を探して、何度聖書を読んでもそこには何も書いていない。恐ろしいことです。本は読めないものなのですから、自分だけが間違っているのかもしれない。周囲の人はみんな、この世界には準拠があると思っている。自分だけが発狂しているかもしれないのです、

本は読めない。1冊の本をいかに読んでも、隅々まで理解することは難しいということです。いくら読んでも、本が難しいものであればあるほど「理解した!」と言うには勇気がいります。それでも、そんな不安定な状態で、ルターは世界を敵に回し、それが言葉によって世に広がったこと。これこそが革命だったのだと、私は解釈しています。

さて、私がどうしてこの本を、連載の最後の本として選んだか(選ぼうとしていたか)。読書というものは、予定調和ではないということを主張するのに最適な本だと思ったからです。本を読むという行為は、先人が記した、いろんな観点の知識や尺度を自身の中に溜めるということ。その中には、読んだことで生きやすくなるものも、知らない方が生きやすいものも、もちろんあるわけです。ルターの場合も、聖書を読んでしまったがために、世界を敵に回さざるをえなくなってしまいました。

最近は、生きやすくなる本や記事が流行っています。哲学書や小説よりも、自己啓発やライフハックの方が出版ハードルが低いですし(利益の回収がしやすいので)、インターネットの記事の大半は、検索されやすいキーワードを起点に作られます。ある種「こんな知識がほしいな」のニーズに対し、的確に応える文章。「早期内定」系の記事が増えていく、そんな仕組みができています。

それが悪いとは実は別に思っていないのですが、ひとつ言えることは、予定調和な読み方は予定調和な生き方を生み出すということで、それは俯瞰して見ると、人間の思考の多様性を削ぎ落してゆくことでもあるんじゃないかとは思っています。……あと個人的には、いろいろ書きましたが、要はまぁ、面白くないんじゃないかなぁと。あくまでバランスだと思うので多くは書きませんが、前提このnoteを(特にこの回を)読んでくださるのは真面目な方が多いでしょうし、やるべきだと言われていることはすでにされて、自己研鑽されていることが多いのではないかと思っていて、そんな方々の遊びというか余白というか、そういうものになれたら嬉しいなぁと思いながら、そして「読んじゃった!うわーどうしよう」なんて思ってもらえたら、もっと嬉しいなと思いながら、記事を書いてきました(やはりというか、私自身の説得力だったり文章力の不足は否めなかったですが)。

既知と新たな出会いとの摩擦こそが人格を厚くしていくものだと思いますし、それは長い目で見ると、社会においても世界においても同じなのではないかと、個人的には思っています。

『就活de名著』は終わるのですが、これからも拙筆ながら複数の場所で書き続けていこうと思います。それはやはり、私も本を読んでしまい、いろんなものを託されたからで、託されてしまったからには書き、伝えようとし続ける責任があると考えるからです。広義な意味での文学とはそうして続いてきたものですし、これからもそうして続いていくのだろうと、私は考えます。

明日で世界が終ろうと、私は今日林檎の木を植える。

ありがとうございました。


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