「組織」なき政治運動の隘路:LGBT理解増進法をめぐるインターネット上の政治闘争から

ここでは、①現代フェミニズムは組織化すべきであること、②組織化するにあたっての六つの論点を明示する。

LGBT理解増進法をめぐる政治

2023年に、成立したLGBT理解増進法をめぐって、インターネット(ツイッター)上で激しい応酬があったことは記憶に新しい。その際、法律を攻撃する側が武器としたのは、トランス・ジェンダーの人々は、単に自らを女性と称するだけで、トイレや更衣室、公共浴場を利用できるようになるという主張であった。

このような主張が法的に見て根も葉もない流言であることは、自身がトランス・ジェンダーの当事者である弁護士の仲岡しゅん氏が、早くも2020年に、Women's Action Notworkにアップロードした「法律実務の現場から「TERF」論争を考える上・下」を読めば明らかである。2023年12月に出版された浅井春夫ほか『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育:バッシングに立ち向かう74問』も、トイレや公衆浴場といった論点について、基本的には仲岡の議論を軌を一にしている。

このように、法的観点からは明らかな論点であるにもかかわらず、ツイッター上ではトイレや更衣室、公共浴場の問題が繰り返し語られた。私もまたその当時、トランス・ジェンダーをめぐる議論について全く無知で、実際にトイレの問題に対してどう考えるべきかについて、明確な意見を持つことができなかった。それは私の不勉強のなせる業であることは確かなのであるが、他方で、私を含めて一般人に与える印象という点では、LGBT理解増進法をトランス・ジェンダーのトイレをネタに攻撃する側が、優勢であったように見える。実際、LGBT理解増進法は国会審議の過程でその内容が後退してしまった。もちろん因果関係は不明であるが、トランス・ジェンダーに対する「トイレ攻撃」が、法案全体に対する印象を悪化させ、法案の修正に貢献したのではないかという印象は拭い難い。

ツイッター上で「リベラル」の側が防戦一方であったという印象は、トイレ問題について、前述の仲内氏のような形で(あるいは『浅井春夫ほか『Q&A多様な性・トランスジェンダー・包括的性教育:バッシングに立ち向かう74問』のような形で、明確なことを述べることができていなかったところから来ている。単に、そのような問題提起がトランス差別的であると主張するだけでは、「トイレをどうするか」という極めて卑近な、だがだからこそ感情に訴えかける攻撃をかわすことはできなかった。

この点について、私はフェミニスト側に、政治戦術の誤りがあったと考える。例えば、Women's Action Network上で行われた、「トイレ問題」に関する公開討論は、実際にはトランス・ジェンダー(より正確にはリベラルな価値観一般)を攻撃する政争の具とされた(https://wan.or.jp/article/show/9075)。そこで、当の論争の発端となった記事を掲載したWomen's Action Networkの編集委員は、記事が「敵」に利用されることとなったことを自己批判し、「今回の私たちの失敗は反論・批判の展開を想定してのことであったとはいえ、「女性の安心安全」か、トランスジェンダーの権利か、という誤った「対立の場」を無自覚に「公論の場」としてしまったところにあります」と書いている。

しかし、政治学者としては、「誤った対立の場を設定した」という書きぶりには強い違和感が残ったのも事実である。というのは、政治においては、正しい(真なる)議論の設定といった、主知主義的と言える把握は、無益だからである。どこに対立を見出すか(どこにアジェンダを設定するか)ということそのものが、政治の本質の一つである。激しい政治的対立が存在するところでは、敵はこちらの弱点を突くように(味方の数を最大化するように)問題を設定しようとするのは自明である。「敵」による「トイレ問題」という議論の設定がいかに愚かしくとも、その問題設定が、トランス・ジェンダーやフェミニズムに興味を持たない人びとに訴求する力を持つならば、「こちら側」としては、それを「誤り」として済ませることはできない。対応せねばならない。さもなければ、政治的に劣勢となる。

そして、敵の設定した問題空間が受け入れられる土壌があるならば、政治的には、その問題設定に対して、フェミニストの総意として、一般の人々の納得を得られるような「公式回答」を与えなければならない。

そして、私の見るところ、現代フェミニズムの最大の問題はここにある。すなわち、フェミニズムは、「公式回答」を与える能力を全く欠いているのである。何故か。それは、様々に衝突する見解の中から、最大公約数的に公式回答を作り出すために必須となる「組織」をフェミニズムはもたないからである。フェミニズムは、時に「一人一派」と言われる。しかし、一人一派の「主義/イズム」などは、実際的に存在のしようがない。

トランス・ジェンダー/フェミニズムの敵は、完全に組織化されている。清水晶子がショーン・フェイ『トランスジェンダー問題-議論は正義のために」に寄せた解説文「スーパー・グルーによる一点共闘──反ジェンダー運動とトランス排除」が明らかにしているように、アメリカの宗教右派を含む「保守派」は、フェミニズムを分断する目的で、トランス・ジェンダーというイシューを戦略的に取り上げている。「トイレ問題」という議論の設定は、完全に政治的に計算されたものだと考えられる。ならば、それと対決する側もまた、政治的に組織化しなければ、勝ち目は薄い。少なくとも、不利になることは疑いない。

現代のフェミニズムに直接的に接続する、いわゆる「第二派フェミニズム」は、ウーマンリブ運動から生まれてきたものとされる。そして、第二派フェミニズムは、アメリカ合衆国における新左翼運動にその起源をもつ。そして新左翼運動は、「民主主義」の名の下に、「組織」を忌避する傾向が強い。現代フェミニズムは、そうした新左翼運動の尻尾を引きずっていると言えよう(日本の文脈では、「セクト」はともかく、「全共闘」は組織を忌避したと言えるはずである)。

要するに、フェミニズム運動は組織化すべきなのである。例えば、敵の攻撃に対して適時・適切に自衛するために、フェミニストとしての「公式見解」を打ち出せる体制を整えるべきである。

また、フェミニスト政治学者であるジョー・フリーマンが言うように、「構造」を持たない政治運動には、実際には専制に陥るという大きな問題もある(Freeman, Jo. “The Tyranny of Structurelessness.)。


組織化のための六つの論点


しかし、組織化するとなると直ちにいくつもの難問が生じてくる。組織化すべきであると主張するだけでは無責任なので、ここでは、組織化にあたって直面する問題点を指摘しておく。

まず、公式見解を打ち出すためには、何らかの形で「一人一派」のフェミニストたちの様々に分岐する意見を一つに集約しなければならないことは論を俟たない。

そして、意見を集約するための方法は、フェミニストたちによる「討論」と「投票」でしかありえない。だが、「投票する」ということだけでも、様々な組織問題を惹起する。ここでは、たたき台的に考慮すべき点として、六点を挙げよう。

第一に、投票する資格を持つ組織の「メンバー」を明確に定義し、加盟にあたってのルールがなければならない。容易に分かることとして、もし当該の組織が様々なイシューに対するフェミニストの公式見解を集約するものだとすれば、フェミニズム運動の敵は、その公式関係の策定過程を攪乱しようとするだろう。フェミニストになりすまして、様々な無責任な/あるいは無意味に過激な意見を組織内で流布し、投票しようとするならば、「投票による公式見解の策定」という試みは確実に失敗する。公式見解を集約するための投票という要件だけでも、メンバーシップに関する厳密なルールと、ルールを執行するための専門機関を必要とするのである。

第二に、フェミニスト間でいたずらに対立を煽るような言葉遣いを行う者に対して、譴責ひいては組織からの除名という形で制裁を行うことができなければならない。また、ひとたび確定された公式見解に対しては、少なくとも部外者の眼に触れる場所で批判することは禁止されねばならない。さもなければ、それは公式見解としての意義を保てないからである。少なくとも、特定のイシューについて敵から攻撃された場合、組織のメンバーは単一の回答を行うよう申し合わせ、そこから外れる者にはペナルティを課す必要が生じる。ここから、メンバーシップに関するルールとそれを運用する特別の機関を設置し、誰がその運用に当たるかも定めねばならないことがわかる。

第三に、公式見解として投票にかける案をどのように練り上げるかという問題がある。現実問題として、全てのメンバーが公式見解案を練り上げることはできないだろう。メンバーの全員がそうした能力と時間とを有すると想定するのは難しい。ここから、公式見解案のたたき台を作成する人々をどのように選び出すかという問題が生じる。実際的には、組織の「執行部(executive)」に当たる人びとが案を作成するか、あるいは案を作成する人々を指名し、選び出すより他ないだろう。執行部は、複数の案を提出させることはできる。提出された案を討論する過程では、やはり組織のいずれかの人を議長として選び出して、議事進行を行わせる必要があるだろう。そして残念ながら、政敵がまさに攻撃を仕掛けてくる問題なのであるから、討論に無限の時間をかけることはできない。ある程度まで議論が成熟したと判断されたならば、議長権限によって投票に付さねばならない。

第四に、投票は「過半数/多数決」に従うのが最も合理的であろう。「民主主義」の理想から、全会一致や2/3という特定多数を必要とするよう議決ルールを定めたくなるかもしれない。しかし、例えば全会一致ルールを採用した場合、たった一人の反対票で全体の意思決定を妨害できることになってしまう。これは、実際にはただ一人に「拒否権」あるいは独裁的権限を与えることになる。過半数ルールは、その意思決定を好まない人の数を最小化するための唯一のルールである(ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』)。

第五に、投票で定められた公式見解の改正ルールを定める必要がある。公式見解がいったん議決されたならば、当該のイシューに対する見直しは、一定期間は不可能と定められなければならない。さもなければ、公式見解に反対する人々がその公式見解を見直すよう際限なく要求できることになってしまい、組織としての公式見解が安定しない。しかし同時に、一定期間が経過し、かつ一定の条件が満たされた場合には、その公式見解を見直すルールも明示されなくてはならない。さもなければ、組織は時間の経過と共に積みあがっていく公式見解によって、化石化してしまう。例えば、日本共産党は様々な問題について公式見解を打ち出しているが、それらの幾つかは明らかに非合理的であるにもかかわらず、改正することができていない。

組織として、以上述べた五点の条件を満たすとき、その組織は、明確なリーダーシップ構造を有することになる。メンバーシップを審査し、公式見解案を策定し、討論の議事進行をつつがなく行うためには、リーダーを必要とするからである。

さて、ここでリーダーシップと言えば聞こえはいいが、有り体に言えば、その組織は、どうしても少数者支配すなわち「寡頭制」に陥るということである。従って、第六に、リーダーの選出と交代を制度化しなければならない。悩ましいのは、組織のメンバーによる競争選挙は、リーダーを選ぶために適した制度ではないということである。もし競争選挙を行えば、リーダーになろうとする人々の間での激しい選挙戦を覚悟しなければならなくなる。そうした選挙戦は、どうしても対立する候補者間での感情的なしこりを残すものになるだろう。すると、組織の調和を維持するのが難しくなってしまうのである。
また、選挙は多数派に利するため、少数派の意見は尊重されなくなる可能性が高い。この問題に対する明白な解決策はないが、最初に選ばれたリーダー層が、一定期間で次のリーダー層を指名するという形式がもっとも適切だと考えられる。

フェミニズムに限らず、現代の左派/リベラルの問題は、組織一般の忌避である。しかし、組織化されずに有効に政治闘争を戦うのは難しい。組織がいかに息苦しく、専制的なものであろうとも、我々は組織から逃れることはできない。




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