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これが善、これが悪と決め付けてはならない

今回は少し説明するのは難しく誤解を与えるかもしれませんが、大切な事ですから書いておきます。ここで言いたいことは「これは善、これは悪と決め付けてはならない」と言うことです。これは子供に教えるにはまだ早いのですが、大人であれば必ず理解しておかねばならないことです。


みなさんは戦争は悪、核保有は悪、憲法改正は悪などと決め付けてはいませんか? また平和は善、人権は善、民主主義は善であると決め付けてはいませんか? 勿論、普段はそのように考えても良いのですが、それらを絶対であると考えてはならないのです。

私たちは人を殺すことは悪、人権は善と教えられれば、やがてそれを絶対のように考えてしまう癖があるのです。そのような固定した考えが私たちに大きな禍を与えることになるのです。

ですから「何故、人を殺すことは悪なのか?」と言う質問は本当は間違いなのです。何故ならこの質問は、人を殺すことは悪、つまり絶対悪であると決め付けているからです。


皆さんが普段考えている一般的な善には必ず悪が含まれます。例えば、普段において親切は善ですが、時と場合によっては悪になることもあるのです。また逆に一般的な悪にも必ず善が含まれています。例えば、人を殺すことは悪ですが正当防衛や戦争などでは善になるのです。ですからこれらを絶対とすれば矛盾が生じるのです。ゆえに皆さんが普段考える善、悪は絶対であるものは一つもありません。ですから基本的に「これは善、これは悪」と決めつけてはならないと言うことです。極限では善も悪になり、悪も善に変わってしまうのですから、絶対と決め付けてはならないのです。


そして「絶対」と決め付けて良いのは「種族(仲間の群れ)保存、群れ社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せの為、つまり「みんなの為」だけなのです。これだけが唯一無二の善なのです。他にはありません。そして唯一無二ですからこれを絶対善というのです。この絶対善こそは悪は一切ないのです。正しくないと言う事が無いのです。これはすべて善であると言う状態です。ですからこれに合致することは当然にすべてが善、正しいと言えるのです。


「種族保存、群れ社会の安寧秩序、公(みんな)の為」に合致するのであれば、普段、悪と考えられている戦争も善となり、普段、善と考えられている人権も悪に変わるのです。極限状態になれば戦争は悪だ!人権を守れ!などと言っていたら種族保存は出来なくなってしまいます。学校などで教えられた道徳、善悪を絶対に正しい、絶対に正しくないと考えていては、極限状態では役に立たず私たちに大きな禍をもたらすことになるのです。


勿論、まだ分別のない子供達には人を傷つけることは悪であるなどの道徳をしっかりと教えなければなりませんが、分別のある大人になれば(絶対)善とは「種族保存、群れ社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せの為に合致すること」これだけであると正しく認識しなければなりません。

これを皆さんに分かり易く説明するのは誤解もされやすく、なかなか難しいことなのですが、大人であれば○○は悪、○○は善と決め付ける考えは捨てなければならないと言うことです。


どんなに悪いと考えられている事でも「種族保存、みんなの安心・幸せの為」に合致する行為は善となるのです。逆にどんなに善だと思われている事でも「種族保存、みんなの安心・幸せの為」に合致しない行いであれば悪となるのです。善悪とは「みんなの為になるのか、みんなの為にならないのか」で決まるのです。ですから初めから○○は悪、○○は善と決め付けてはならないのです。


学校などで教わった道徳、善は子供の善であり、私の言う絶対善は大人の善なのです。大人になれば善とは「種族保存、群れ社会の安寧秩序、みんなの安心・幸せの為に合致すること」だけであると皆さん理解しなければなりません。現在の日本社会にも子供の善悪が蔓延っていて、日本は全く幼稚な社会であるのです。いつまでもそうであれば私たちの日本はやがて滅びるしか道はないのです。


今回のコロナウイルス騒動では総理でさえ「検査の強制は人権に反する」と言ってコロナウイルスに感染している可能性のある人達を検査もできずに自宅に帰らせてしまう失態を演じました。本来、社会の安寧秩序を守る為には人権などとは言ってはいられないのです。人権を絶対的に善と考えているから、極限状態では間違いを犯すのです。憲法にも公共の福祉に反するならば人権や自由は尊重されない、と書いてあるのですが、ここのところを法律家や皆さんはよく理解できていないのです。公共の福祉とはみんなの安心・幸せの事であり、これは絶対善の事なのです。


(絶対)善の定義は「公(みんな)の為」なのです。公の為になる事だけが善、正しいと言えるのです、他にはないのです。勿論、一般的には「差別はいけない」と言ってもいいのですが、本当は「不当な差別はいけない」と言わなければならないのです。人を殺すのは悪ではなく、不当な殺人は悪であり、正当な殺人は善なのです。「正当な」とはみんなの為になると言うことです。「不当な」とはみんなの為にならないと言うことです。大人であればここのところをしっかりと認識しなければなりません。


皆さんは偶然にこのブログを知り本当の善の定義を知ることが出来たのですから、これも何かの縁だと思って本当の善、本当の正しさとは何かをしっかりと理解してください。そして大人の善悪を知り大人になってください。大人になるとは「責任を取る」と言うことです。責任感のない人は精神的にも知性的にもまだ子供と言うことです。


自分の発言、行動に対して責任感を持つようになれば、必ず本当の正しさとは何か?を考えるようになるのです。責任感が強くなればいい加減な発言は控えるようになっていくのです。何故なら自分の発言に強い責任を感じるようになるからです。日本も幼稚な社会を脱して大人の社会を作り上げなければなりません。そのためには私たちはどうしても絶対善を知らなければならないのです。

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