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何故、人を殺してはいけないのか?

現在においても「何故、人を殺してはいけないのか? 正しくないのか?」と言う問題は盛んに議論されています。ずいぶん昔の問題を今でも議論されていると言うことはまだ確かな答えが出ていないと言うことです。それではこれはいかなる答えを求めて議論されているのでしょうか。それは人を殺してはならない確かな理由、根拠です。「正しくない」と言うならば、確かな、間違いのない理由、根拠が必要となるのです。

また「人を殺してはいけない」と言う言葉の意味には「絶対に人は殺してはならない、絶対に正しくない」と言う意味が含まれています。ですから皆さんはあらゆる場合(絶対)においてもそうなのか? このような場合であれば正しいのではないか?と反論しようとします。またこの問いは何故、嘘をついてはならないの? 何故、盗んではいけないの?などと同じ問いなのです。これらもまた確かな理由、つまり絶対的な理由、根拠を示せと言うことなのです。それはつまり「絶対に正しくない事とは何かを示せ」と言うことなのです。それはいわゆる絶対悪です。つまり「何故、人を殺してはならないのか?」と言う問いはこれは「絶対悪とは何か?」と言う問いなのです。あらゆる場合、あらゆる条件においても悪なるもの、それが絶対悪です。絶対善、絶対悪などないと信じられている世の中ですから、皆さんどんなに長らく議論してもその答えはなかなか見つからないわけです。

これは死刑問題でも同じです。日本では死刑は正しいとなっています。死刑は絶対に善いと言えるのだろうか? 死刑は絶対善なのだろうか?と言うことです。つまり「正しい、正しくない」とはつまるところ絶対善、絶対悪とは一体何か?と言うことを求めて議論されているわけです。

ここで大事なことは絶対善、絶対悪は根拠、理由、目的と言うことです。その絶対的な根拠に合致していれば、それが「正しい答え」と言えるのです。ですから絶対善を絶対的に正しい答えと考えてはならないのです。「根拠、理由、目的」と「答え」は違うのです。絶対的な根拠に合致することを「正しい(答え)」と言うのです。ここのところを多くの皆さんは勘違いしているのです。

このブログでは絶対的に正しい事、絶対善は「みんなの為」と示していますから「何故、人を殺してはならないのか?」その問いの答えはつまり「みんなの為にならないから」と言うことです。また非常時(正当防衛や戦争など)においては人を殺すことは正しこともあります。その理由、根拠もまた「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」になるから正しいと言えるのです。

人を殺してはならないのも、嘘をついてはならないのも、盗みをしてはならないのも、その理由、根拠はすべて「みんなの為」にならない、合致しないから、なのです。つまり「あらゆる正しくないもの」そのすべての絶対的な理由、根拠はすべて「みんなの為」にならない、反するからと言うことです。また「あらゆる正しいもの」そのすべての絶対的な理由、根拠もまたすべて「みんなの為」になる、合致するからなのです。

このように絶対善である「みんなの為」はあらゆる社会的な問題においても、そのあらゆる場合においても絶対に変わることのない根拠、理由なのです。ゆえに絶対善と言えるのです。

常識的に考えてみても、みんなに関する問題において「みんなの為」にならない答えなどそもそも答えとさえ言えません。「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」と言う私たちにとって最高の目的、根拠に合致する答こそ常に「正しい」と言えるのです。

絶対善とは「みんなの為」であり、それに合致する答こそ常に正しい(答え)と言えるのです。

ですから何かみんなに関する困った問題が起きれば、少し私欲を抑えて「一番みんなの為になる答えとは何か?」とみんなで知恵を出して考えればいいのです。それこそが最も正しい答えを得る最高の方法なのです。ですから何事においても一人で考えたことを「正しい」と考えてはなりません。基本的に正しい事はみんなで考えたことなのです。但し、その出た答えが道理的な答え(みんなが当然正しいと考えるもの)であれば一人で考えても正しいと言えます。

結論として言えば「何故、人を殺してはいけないのか? 正しくないのか?」その正しい答えは「みんなの安心・幸せの為にならない、反するから」なのです。私たちにとって最高の善とは「みんなが安心して幸せに暮らせる事」なのです。これだけは一切の悪はありません。ゆえに絶対善と言えるのです。これを守る事こそ私たちにとって最も価値あることであり、それに合致することをすべて「正しい」と言い、それに反することをすべて「正しくない」と言うのです。このように一般的になかなか解けないような難問も絶対善さえ分かっていれば案外簡単に解ける問題なのです。

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