希死念慮という救済措置。

こんばんは、焼却炉です。ずっとこの気温が続けばいいのに。

今日もまた思ったことを徒然なるままに書いていこうと思います。よろしくお願いいたします。


溢れる死亡報告。

「しにたい」「しぬ」「しんだ」
そんな文字が躍る世の中を、嘆く人もいる。辛いからこそ頑張って乗り越えて、その先に希望を見出せと言うような人もいる。別に勝手に嘆いていればいいし、勝手に希望を見出しておけばいいと思う。それはそれで幸せなんだろうし。

でも、希死念慮の塊を吐き出して、しぬことを延長している人だっている。

昔よりもきっと言葉がインスタント化したこの時代において、希死念慮を吐き出す行為はそんなに難しいことじゃない。

「つらい」そんな言葉じゃ表せない。もしくはそう言うと真面目に受け取られて聞いた相手が困るかもしれない。

だから逆により大袈裟な「しぬ」という言葉を使って、その横に笑いでもつけて、現実味を薄くして、でも気づいてほしいと願う、誰かにどうしたの?と聞かれたい。のかもしれない。

そんな人達ばかりかはわからないけれど、そうやって希死念慮を吐き出して、吐き出した同士で支えて生きている人達も居るだろうと思う。

希死念慮はある意味、助けてくれる人を見つける、同族を見つける、そのための救済措置になっているんじゃないかと。

いつでもしねる。


簡単にしぬなんていうなと。生きたくても生きられない人だっているんだと。そうやっていう人がいる。私自身は私の大切な人達がしにたいと言ったら、しぬな、とは言うだろうし、話を聞いて生きてほしいとは思うけれど、でもしぬって言葉を吐き出す行為自体は別に構わないと思う。だってそうしないときっと呼吸がしにくいんだろうから。

もはや希死念慮を吐き出すこと自体は呼吸と同じようなものになっていて。呼吸がしやすくなるんだったら、いくらでも吐き出せばいいと思う。生きたくても生きられない人なんてぶっちゃけいえば関係ない。その人の苦しみはその人にしかわからないし、こちらの苦しみはこちらにしかわからない。苦しみを肩代わりしてくれるわけでもないのに、そういう人達のことを考えたところで何の意味があるのだろうか。

しのうとは思わないけれど、でも、ふとした瞬間に、誰かに刺されて、だとか、車にぶつかって、だとか、そんなことを考える事もある。そもそもここまで生きながらえているとは思わなかった。高校を卒業したらどこかで事故ってしぬのかと思っていた。でも人間のひ弱さを考えれば、それもなくはない。しぬことで解放されるとは思わない。でも、生きるという行為は時折自分を追い立てて来るが、死というものは静かにまとわりついて人はいつかしぬのだから、と時折自分を楽観的にしてくれる。しのうと思えばしねる。ただ、今のところしぬ理由がないから、しんでいないだけだ。


希死念慮を飼いならす。


時たまこの子は暴走するけれど、きっと向き合ってくれない悲しみが暴走させているのだろうと思う。生きている限り、死はつきまとってくるものだから、上手い付き合い方を考えていくしかない。今は落ち着いてくれているけれど、あの頃の自分はきっとうまく向き合えていなかったんだろうな。優しく頭を撫でてくれる人も、静かに抱きしめて話を聞いてくれる人も、夢物語だけれど。自分はそういうことがちゃんと出来る人間になれるように。

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