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他人というだけで感じる色気

明けましておめでとうございます。

新年早々たくさんの悲しい出来事が起き、苦しい日々が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

どうか皆さまのご多幸をお祈りしております。

さて、今日から2024年のnoteを書いていきます。タイトルの通り「他人というだけで感じる色気」です。

まぁ、字面だけ見ると何を言ってんだこいつという感じですが、僕もイマイチまとまっていないので散らかってしまったらすみません。

それでも、僕が日々感じていることなので、できるだけ言語化するように努めます。

こんな経験はないでしょうか。

「この人何考えてるか分かんない。ちょっと気になるなぁ。」

そう感じる経験は誰にでもあると思いますが、いわゆるミステリアスな人のことですね。

ミステリアスな人って気になりますよね。

ただ、僕からするとミステリアスじゃない人っていないんです。他人はみんなミステリアス。

そして、この感覚が相手を慮る(リスペクトする)第一歩になると信じています。

このあたりの感覚を今日は書いていきたいと思います。お付き合いください。

言語は真実じゃない

まず、大前提として言語って真実じゃないですよね?

あ、なんかひろゆきみたいになっちゃった。

でも、本当にそう思ってます。その人の思いが全部言語に集約されていてコミュニケーションに用いられるのであれば、極論戦争なんて起きない。

誤解やディスコミュニケーションによって事実からズレてしまって争いが生まれると思います。

主観的に見ると自分の言語と思いの乖離は分かりますが、相手の言語と思いの乖離はわからないですよね。

このズレと他人はいつまでも分からないというとこに僕は色気を感じます。

そのズレが概ね誰もが同じくらいであれば分かりやすいのですが、人によってはむしろズレてなかったり、全く正反対だったりと様々ですし、もう考えただけで頭痛いですよね。

だからこそ、僕は他人のことを分かったつもりになれないんです。

いや、分かるよ。が安易に言えなくて、共感性低いやつだと思われがちです。

例えばですけど、「りんご」というモノに対して何を思い浮かべるかは人それぞれですよね。文字で浮かぶ人もいれば食卓にあるりんごそのものの人もいるし、絵画の中のりんごを思い浮かべる人だっているかもしれない。

その人が経験してきたものによって概念の捉え方が違うというのは感覚的にわかることなのですが、その出力装置としての言葉がその人の全てではないという考え方です。

では、なぜそれで色気を感じるのかを次に書いていきます。

色気とは

めちゃくちゃ破綻してるかもしれませんが、色気って多分「相手の経験」に起因する感覚だと思います。特に可視化できない経験。

だって自分に色気感じることあります?
俺って色気あるなあとか私色気すごくねって思える人なんていないと思う。

もし仮にそう感じることができる人がいるなら、それは自分を他者というフィルターから見た時の評価だと思う。

棚に上げる。という感覚に近いですかね。多分。

あとは、長年俳優という仕事をしている人にもこの言葉がよく当てはまります。色気やばいなあってめちゃくちゃ思います。顔が整っているとか声が良いとかもあるかもしれませんが、やはり経験による年輪に色気を感じるのかなと。

またその「経験」というものが想像を絶するくらい苦しいものだったりする場合もあるじゃないですか。死別や解雇など大きな不幸だったり。

俳優は表に出る仕事なので、よくお目にかかるという意味で例に出しましたが、街を歩く紳士のみなさまにも感じます。ネクタイが緩んで少し千鳥足な方を見ても色気が漂っている気がします。

また、ここはあえて紳士の方のみに限らせてもらいましたが、淑女の方の色気も素敵だと思います。しかし、生物の分類的はに僕は男なのであまり触れすぎてもアレかなと思いこのように書いています。

ご容赦ください。

結局触れてしまいましたが。

つまり何が言いたいかというと、他人には可視化できない経験があるという事実に僕はなぜか色気という感情に近い何かを感じるということです。

ニュアンスすぎて伝わっていないかもしれませんが、強行突破します。

納得してください、とりあえず首を縦に振ってください。

他人だから諦めない

僕は他人の経験に対してわかったふりができないので、相談を受けてもイマイチクリティカルに物を言えていない自覚があります。

憧れるのは、これはこうやってやる、それはあれが正解と断言できる大人です。
しかし、僕の性分ではそれは難しい。

「うーん。そうなんだね。なるほど。うーん。難しいなあ。」

とよく言ってしまいます。自分にとっての正解やルートはある程度あるのですが、押し付けてもよくないかなあとか思って、語尾に「じゃないかあと思う。」をつけてしまいます。

でもそれでも良いのかなと思ったりします。
答えは仮固定にして、とりあえず変わるものだと思って日々進むくらいしかできないです。それこそが人生。

ダッツライフですわ。

へへへ。

真面目に書きすぎてふざけたくなってしまいました。すみません。

最初に書いた言葉に戻ると

このような感覚が他人を慮る一歩になると思います。

当たり前ですが。

自分が出来ているかどうかは一度棚に上げますよ。

昨今のSNSを見ていると、つくづくそう思います。誹謗中傷だけでなく、数字に囚われて最もらしい、正解らしい何かを書くことが必須のようになっている気がします。

まるで相手の全てを知っているかのような評価を下す人もいます。

見ていてしんどいです、正直。

僕はこのnoteを他人に向けて書いています。自分で整理したい意味合いもありますけどね。

少なくとも僕は今読んでくれている方の経験に対して敬意を払っていますし、その苦しみに安易に優劣はつけません。

だから僕からするとあなたにはすごい色気があります、マジで。

よく生きてきたな。凄いな。と思います。

だから、どうか同じように一度立ち止まって相手の可視化できない経験を想像してほしいなと思います。

自分を棚に上げすぎたので一旦下ろしますね。

僕にだってまだまだできていないので、これからもっと想像することに努めます。

無駄な争いはやめて、誰かを慮る日々に注力したいですね。

ことよろです。

今年は少し休憩しません?


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