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日本のマレー作戦はマレーシアの独立にどんな影響を持ったのか?

イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。

今回のnoteのテーマは、日本軍のマレー作戦(英領マラヤ侵攻)とマレーシアの独立についてです。今回のnoteを読むメリットはこちら!

  • マレーシアの独立の諸原因を知ることができる

  • その中で、日本が果たした役割について知ることができる

マレー作戦の概要

マレー作戦とは、太平洋戦争(第二次世界大戦の太平洋戦線)開始時に、日本軍がマレー半島に奇襲上陸して、シンガポールまで侵攻した作戦のことです。
第二次世界大戦中の日本の戦域は以下の通りです。


大日本帝国の最大版図

現在のマレーシアやシンガポールは画像の左下にある英領マラヤに属していました。これを日本が落とした作戦がマレー作戦と呼ばれます。
英領マラヤの他に、仏領インドシナ(現在のベトナム・カンボジア)や蘭領東インド(現在のインドネシア)・米領フィリピンも日本は勢力圏に加えました。これら欧米諸国の植民地を日本の影響圏に入れる作戦を、まとめて南方作戦と言います。

マレー作戦に対する右派的な見方

マレー作戦及び南方作戦の日本の動機として、「アジアの植民地を欧米勢力から解放する」ということが語られます。

実際に、マレーシアの元上院議員であるラジャー・ダト・ノンチックは以下のように語っています。

私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。

日本会議「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/844

このコメントを載せているのは日本会議です。日本会議は文化人や宗教家・政治家が参加する団体です。政治的立ち位置は右派~極右とされています。
そして、日本会議では第二次世界大戦は大東亜戦争と呼ばれ、「自存自衛と大東亜の解放を掲げて戦われた日本の戦争」とされています。
つまり、日本会議は「日本はアジア諸国解放のために第二次世界大戦を戦った」というスタンスを取っています。

とはいえ、この歴史観はさすがに美化しすぎかなと思います。ということで、以下でマレーシア独立の諸原因を見ていきます。そして、マレー作戦がマレーシア独立にどんな影響を持ったのか見ていこうと思います。

マレーシア独立の諸原因

マレーシアがイギリスから独立するまで

マレーシア独立の原因を探る前にマレーシアがイギリスから独立するまでの流れを見ておきます。

少しややこしいのですが、マレーシアという名前の国家が誕生するのは1963年です。しかし、現在のマレーシアがイギリスから独立を果たしたのは1957年のことです。1957年ではマラヤ連邦という名前でした。
マレーシアが誕生したのは、1963年にマラヤ連邦がシンガポールと連合したからです。といっても、1965年にシンガポールはマレーシアから分離独立して、現在の領土に落ち着くのですが。

日本会議の歴史観から見ると、マレーシアが欧米勢力の影響から脱することが大事なので、1957年のマラヤ連邦成立までの流れを見ていきます。

まず、1945年に第二次世界大戦が終了。日本は敗北したので英領マラヤから引き上げます。そして、戦勝国で宗主国のイギリスが帰ってきました。

といっても、イギリスは割と英領マラヤの独立を積極的に考えていました。例えば、1946年マラヤ連合への改編や1947年マラヤ連邦への再改編などを通して、英領マラヤがなるべく安定して独立できる統治形態を、マラヤ連邦の初代国王であり初代首相であるトゥアンク・アブドゥル・ラーマンなどと共に模索します。
その甲斐あって、成立から10年後の1957年にマラヤ連邦は独立を果たしました。

マラヤ連邦独立の諸要素

マレーナショナリズム

マレーナショナリズムは、マレー系の人々が植民地支配を脱し、自分たちの国家を持つことを目指す政治的運動を指します。だから、マレーナショナリズムは、当然マレーシアの独立の要因となっています。マレーシアはマレー系・中華系・インド系の三民族からなる国家ですが、ブミプトラ政策というマレー系が優遇される政策が取られているからです。

マレーナショナリズムは、東南アジアのマレー語を話す地域を結びつけ、マレー文化や利益を保護し促進する政治的実体を確立することを目指していました。たとえば、トゥンク・アブドゥル・ラーマンやダトク・オン・ジャアファールなどの有力なマレー民族主義者は、マレー系により多くの政治的権力と交渉力をもたらす統一的な政治的勢力を作ろうとしていました。

次節以降で見ていくように、マレーシアの独立には外部要因があります。しかし、そもそも英領マラヤの住民たちが自分たちの国家を持ちたいと思っていなければ、マレーシアの独立はあり得なかったのです。

マレー作戦及びそれによる英国の弱体化

マレー作戦は、イギリスの英領マラヤにおける威信を喪失させました。マレー作戦は1941年12月8日発動、1942年2月2月15日に終了なので、英領マラヤは約三か月で日本の手に落ちたことになります。

この事実は、マレー半島を長い間支配していたイギリスの威信に重大なダメージを与えました。英領マラヤの住民たちは、イギリス軍が日本の侵攻に対して、都市を守ってくれなかったために、イギリスに裏切られたと感じました。

また、日本は皮肉にも地域の統合政府を作り、これが独立後のマレーシアの政治統治のモデルになりました。例えば日本は、マレー優遇政策を永続化することで、地域の民族間の紛争を残しました。
英領マラヤはマレー系・中華系・インド系の三つの民族で形成されており、各民族間の格差が問題になっていました。主に、中華系・インド系は比較的豊かで、マレー系は経済的に貧しいが人口は多いという状況でした。

日本は中華民国と戦争していたこともあって、マレー人は特に行政面で優遇され、日本降伏前には「大日本帝国領インドネシア」の独立計画を認められました。華人は優遇されず、同化政策にさらされました。

日本の占領は、マレーシアの独立に直接は繋がらなかったもののイギリスを打ち負かし、その植民地における威信を失わせました。また、日本の占領はマレー人優遇の地位を与え、それが今日のマレーシア政治統治のモデルになりました。

やはり20世紀前半までは欧米勢力が圧倒的だったので、アジアの人々の目の前でイギリスが同じアジア人の日本人に打ち負かされるというのは強烈な印象を与えたはずです。


イギリスの脱植民地化的な世論

第二次世界大戦で弱体化したとはいえ、イギリス本国と英領マラヤの力の差は歴然です。だから、イギリス本国の事情もマレーシアの独立に重要です。

イギリスは、大国としての地位を維持するために植民地支配を辞めました。つまり、イギリスは脱植民地化を推進しましたが、これはイギリスの衰退を表すものではなく、世界での影響力を維持するための戦略だったのです。

イギリスの脱植民地化は、イギリスと他国との関係が帝国主義的なものから、経済的・外交的な形態の非公式帝国に移行するプロセスであったとされています。つまり、イギリスは戦争で疲弊して直接植民地支配を行う余力はないが、大国としての地位を維持するために友好的に脱植民地化を進め、経済的・外交的な利益を維持しようとしたのです。
そのため、イギリスは非植民地化のプロセスに協力的な地元エリートと協力することを試みました。

ただし、イギリスの非植民地化運動は国内だけで起こったわけではありません。当時の国際政治にも影響を与えました。イギリスの脱植民地化は冷戦初期と重なりました。戦後のイギリスは、米国との協調なしに主要な大国として行動することはできませんでした。したがって、他の超大国との競争で帝国を維持することができなかったのです。イギリスの植民地政策が国内外の要因によって崩壊したことが、地元の人々の自治権からの独立につながり、長期的にはマレーシアの成立につながったのです。

マラヤ危機

マラヤ危機は、1948年から1960年にかけてイギリスとマラヤ連邦軍が、マラヤ共産党に対して戦ったゲリラ戦でした。この紛争により、イギリスはマレーシアに独立を認め、マレーシア・サバ・サラワク・シンガポールを含む政府を形成する必要があると認識します。

なぜならイギリスは戦争で疲れ果て、復興を促すために財政コストを削減したかったからです。加えて既に冷戦がスタートしていたので、イギリスはアメリカの同盟国として自分の影響下の地域くらいは、共産化されるのを防がなければなりませんでした。

共産主義勢力は国が不安定になると跋扈(ばっこ)するものです。なぜなら、国が不安定なら生活水準が下がります。生活水準が下がった不満に対する説明として、共産主義の考え方である「ブルジョアvsプロレタリアート」が持ち出されます。そして、ブルジョアを倒すための革命が謳われるのです。
だからマラヤ連邦の共産化を防ぐために、イギリスはなるべく安定した形でマラヤ連邦を独立させる必要があったのです。

まとめ

マレー作戦がマレーシア独立に繋がったかというと、間接的には影響があったと言えます。というのも、日本軍は確かにイギリスのインド以東でのプレゼンスを低下させたと言えるからです。

とはいえ、マレーシアの独立にはマレーナショナリズムに代表されるマレーシア人自身の努力に原因があったことは明白です。また、そもそもイギリスが脱植民地化を模索していたこと、マラヤ危機という冷戦の文脈もあります。
だから、マレー作戦のマレーシアの独立への影響は、イギリスを弱体化させたことを通じた間接的なものに留まると言えます。

イギリスの歴史学者であるアーノルド・トインビーは以下のような評価を下しています。

「第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」

1956年10月28日/英紙「オブザーバーL」、日本会議「世界はどのように大東亜戦争を評価しているか」https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/844より引用

これも日本会議からの引用ですが、ある程度信用できるかつ中立的なものだと思います。というのも、アーノルド・トインビーはイギリス及び世界中で著名な歴史家なので、下手なことは言えないからです。

トインビーが示した通り、日本はマレー作戦及び南方作戦を通してイギリスを弱体化させました。これがマレーシアの独立の遠因となったということは言えると思います。もちろん、マレーシア人たちの努力がマレーシア独立の一番の原因であることは明白です。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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