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アチェはなぜインドネシア独立に協力した後、分離独立運動を起こしたのか?

イントロダクション

こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係について伝える人です!

ここ最近の記事で、マレーシアの歴史について書いてきました。今回はその番外編です。マレーシアと同じくマレー世界に属するインドネシアについての記事です。その中でも、独立志向が強いアチェについての記事です。今回のnoteを読むメリットはこちら!

  • ナショナリズムがどのように異民族を結びつけるか分かる

  • ナショナリズムによる国家統合の限界が分かる

それでは、早速見ていきましょう。

アチェの歴史は欧州勢力への対抗の歴史である

アチェはインドネシアのスマトラ島北西部に位置しています。以下の地図の赤丸のところです。つまり、アチェはマレー世界の最西端に位置しているのです。

インドネシア州区分

まず、アチェの歴史を概観しておきましょう。というのも歴史に対する意識が、アチェの人々の行動に大きな影響を及ぼしているからです。

アチェの歴史は大きく3つのフェーズに分けることができます。

  1. アチェ王国の時代(16世紀~20世紀初頭)

  2. 植民地化の時代(20世紀初頭~1945年)

  3. インドネシア内の一州としての時代(1945年~現在)

アチェの人々の行動を理解するために大事なのは1と3の時代です。1の時代が下敷きとなって、3の時代の行動に繋がります。

アチェ王国の時代

アチェ王国は16世紀~17世紀ごろに、マレー世界の大国になった国です。元々マレー世界には、マラッカ王国という国が繁栄していました。マラッカ王国の強みは、マレー世界の中心部というロケーションです。中華文明・インド文明・イスラム文明の3つの文明からちょうどいい距離にあったので、中継貿易で栄えました。また、マレー世界で取れる香辛料は、特に欧州の国々に好まれました。

そんなマラッカ王国ですが、ポルトガルによって滅ぼされてしまいます。ポルトガルは香辛料貿易を独占し、イスラム教徒に差別的な政策を取ったので、元々マラッカで貿易していた人々はアチェに拠点を移します。つまり、アチェ王国は、ヨーロッパ勢力に対するマレー世界の抵抗として登場したのです。

なお、マラッカ王国が滅んだ理由については以下のnoteに詳しく書いています。

ヨーロッパ勢力への抵抗のため、アチェ王国はイスラム文明との連携を進めます。例えば、またまた香辛料貿易を独占しようとしたオランダに対して、ムガル帝国が脅しをかけているのです。これを受けて、オランダは独占政策を取り下げました。
ちなみに、アチェ王国のイスラム文明との連携は、以下のnoteに詳しいです。

アチェ王国は20世紀初頭にはオランダによって植民地化されてしまいます。しかし、これは現在のインドネシアの他の地域よりかなり遅いものでした、インドネシアの首都ジャカルタがあるジャワ島は、17世紀には植民地化されています。加えて、アチェ王国は19世紀後半には外交官を欧米諸国に派遣しています。つまり、植民地化されずに対等な国として扱われていた場面もあるのです。

このようなインドネシアの他の地域と異なる歴史が、アチェのアイデンティティを形作り、アチェのインドネシアに対するスタンスを形成します。具体的には、インドネシアという国家をアチェのアイデンティティを守るためのものと捉えているので、インドネシア独立には賛同した。しかし、時が経つにつれてインドネシアがアチェのアイデンティティを守るとは限らないと感じ、分離独立運動を開始します。

なぜアチェはインドネシアの独立に賛同した後、独立運動を起こしたのか?

1940年代:インドネシア独立に賛同

インドネシアは元々オランダの植民地でした。実はインドネシア人という確固とした民族がいるわけではありません。アチェやジャワを代表とする様々な民族が、インドネシアという国を構成しています。
このような多様な民族の集団をある意味でまとめたのが、オランダによる植民地化です。オランダ領東インドとして植民地として扱われたことを共通の「歴史」として、インドネシアは独立を果たします。

これはアチェの歴史とも一致します。上で見たように、アチェのアイデンティティはヨーロッパ勢力に抵抗してきたことに裏付けられています。だから、ヨーロッパ勢力の一角であるオランダの植民地化を脱することは、アチェの歴史と結びつきやすいのです。

我々は、この国の偉大な指導者、イル・スカルノを支えるため、全ての人々が一致団結し、服従することを宣言する。我々は、パラン・サビルと呼ばれる聖なる戦いに参加することを決意し、そのために与えられた任務や義務を全うする覚悟を持っている。この戦いは、アチェ州における先人たち、特に故テウンク・チク・ディ・ティロやその他の国民的英雄が指導した闘いを引き継ぐものであると信じている。同胞たちよ、我々は一致団結し、この聖なる戦いに勝利することを誓う。

(‘Maklumat ulama seluruh Atjeh’ [Declaration of the Ulamas throughout Aceh], 1945, cited by Reid, 2010). 筆者訳

興味深いことに、1970年代から始まるアチェの分離独立運動を主導したティロでさえ、インドネシアのオランダからの独立には賛同しています。これがどのように、アチェのインドネシアからの分離独立運動に繋がるのでしょうか。

1950年代:インドネシアのイスラム化を志向

上の問いを理解するためには、1950年代の歴史も重要です。というのも、1950年代に起きたことが、アチェがインドネシアからの分離独立によって、アイデンティティを守ろうと考えさせるきっかけになったからです。

その出来事とはダルル・イスラムとその挫折です。ダルル・イスラムとは、インドネシアにイスラム国家を作るための運動です。イスラム国家とは、イスラム法によって統治される国家を指します。現在、世界で最大のイスラム人口を抱えるのがインドネシアなのでややこしく感じますが、インドネシアはイスラム法によって統治されていないし、イスラム教徒になることが強要れてもいません。それもそのはず、オランダによって植民地にされたことだけを共通の歴史にして、多様な異民族がまとまってできた国がインドネシアです。だから、インドネシア人とはこういうものだと定義することは避けました。

しかし、アチェにとってイスラム教は非常に重要です。前述の通り、アチェはマレー世界の最西端に位置していることもあって、昔からイスラム世界との交流が盛んでした。ヨーロッパ勢力に抵抗するために、イスラム帝国(オスマン帝国やムガル帝国)の力を借りていたこともあって、アチェの歴史ともイスラム教は離して考えることはできません。

だから、アチェはインドネシアをイスラム化を図りました。これがダルル・イスラムと言われます。しかし、インドネシアは多様な異民族が共存する国家なので、ダルル・イスラムは当然鎮圧されてしまいます。

ダルル・イスラムの挫折は、アチェがアイデンティティを守るためにはインドネシアをどうこうするよりは、アチェが国家としてインドネシアが分離独立するという方向転換を促しました。

1970年代:インドネシアからの分離独立運動

こうして、アチェのインドネシアからの分離独立運動(自由アチェ運動)の下地ができます。

これに加えて、アチェは元々ヨーロッパ勢力と対等だったのだという歴史観が、自由アチェ運動を主導したティロから打ち出されます。根拠となっているのは、1819年にイギリスとアチェとの間で結ばれた「マラッカ海峡における安全保障ならびに関税と通商規則」に関する条約だそうです。つまり、この時期にはマレー世界の色んな地域が植民地化されていたが、アチェ王国は独立を保てていたのです。

ティロはこの歴史から、アチェがインドネシアの一州に留まっていることに疑問を呈します。

何世代にもわたって、アチェ人はこの栄光ある日(1819年のイギリスとの条約のこと)を完全に忘れ、彼らの記憶から消し去られたかのようであった。それはあまりにも残念なことであった。彼らはこのこと(1819年のイギリスとの条約のこと)について何も知らなくなってしまい、1973年に私がニューヨークで長い間初めて知るまで、その存在すらも忘れ去られていた。私の演説は…アチェ人に死んだ英雄たちを称え、再び自由な主権国民の一員として立ち上がるよう呼びかけるために行われたものであった。

ティロの手記。筆者訳

この歴史観が周りのメンバーに伝わり、現在まで続く自由アチェ運動を引き起こしたのです。

まとめ

アチェのナショナリズムは、ヨーロッパ勢力に抵抗してきたというアイデンティティを守ることを志向するものでした。ここで、その手段は問わないのがポイントです。アチェの人々(特に独立運動を展開している人々)にとって、インドネシアという国家は二の次の存在であって、アチェのアイデンティティを守れるならインドネシアに参加するし、ダメそうなら分離独立を訴えるのです。

ナショナリズムは異民族を国民として結びつけることもできますが、その結合原理が崩れると分離独立運動を引き起こすものなのかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました!次回からいよいよ現代のマレーシアや社会制度などについて書いていきます。

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