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「稚内市民」の知らない樺太

(稚内北星学園大学の授業で、学生が書いた記事。)

稚内市中心部の高台にある稚内公園。この場所に樺太で亡くなった日本人を慰める慰霊碑の「氷雪の門」と電話交換手として最後まで残った乙女たちを称える「九人の乙女の像」がある。何度かこの場所を訪れたことがあるが、これらの記念碑が樺太/サハリンのどのような歴史を記念したものなのか。実は深く考えたことがなかった。この場所を再訪したのをきっかけに、樺太/サハリンのこれまでの歴史とりわけ終戦後の引き揚げについて学び、「氷雪の門」「九人の乙女の像」の意義を考えた。

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「氷雪の門」や「九人の乙女の像」は、稚内駅からほど近い高台にある「稚内公園」の中にある。稚内駅からは徒歩30分、車なら5-10分程度の距離だ。5月から10月まで開園(冬は閉園)していて、夏は観光客が観光バスで訪れ、記念写真をとる姿が見られる。。

1945年8月15日に日本は玉音放送によってポツダム宣言の受諾を宣言、無条件降伏という形で終戦したが、樺太では翌日の8月16日にソ連軍が南樺太を占領するための攻撃を開始した。そこから七日間南樺太から撤退しようとする人々は多かったが、港のある真岡や大泊に向かう道中、ソ連軍の攻撃や集団自決などによって多くの日本人が亡くなっている。故郷樺太を追われたことや多くの日本人が死んでいったことを思い、樺太(現サハリン)をのぞむ稚内公園の高台に、慰霊碑や像が建てられることになった。

氷雪の門と九人の乙女の像が設置されたのは1963年の8月。氷雪の門は樺太で亡くなった日本人を慰めるための慰霊碑としてたてられたものである。氷雪の門の女性の像が上を向いているのは故郷を追われたことへの悲しみの涙を流さないため、手のひらを見せているのは樺太や家族を失ったことを表している。そして足はその悲しみや苦しみから立ち上がることを表している。
九人の乙女の像は樺太の引き揚げの際に真岡町で最後まで電話交換手として残り、青酸カリで自殺した乙女たちを顕彰するために建てられたものである。

終戦後の樺太で何が起きていたのか。稚内公園を後にした私は、NHK特集「樺太地上戦 終戦後七日間の悲劇」を見た。

NHKドキュメンタリー - NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586965/index.html

多くの資料ではソ連軍がいきなり南樺太を攻撃したとなっているが、NHK特集では、恵須取に駐留していた日本軍が終戦したことを知らずに、上陸してきたソ連軍兵士を攻撃したのが、終戦後の地上戦のきっかけになったとされている。

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感想: 私は稚内に生まれ育った生粋の稚内人だが、樺太の歴史についてはあまり知らなかった。九人の乙女の像や氷雪の門の成り立ちを知り、樺太の終戦後の引き揚げについて調べたが、8/15以降に樺太でおきた出来事については、必ずしもよくわかっていないこともわかった。引揚げ後を生きた人たちの多くがなくなる中、樺太での出来事も忘れ去られていくのかもしれない。サハリンの隣、稚内出身者として、何を語り継いでいくべきなのか、これからも考えていきたい。

(古川)

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