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第104話.ヤング・アコード

1893年

3代目「ホンダシビックシリーズ」のデザインが、そろそろ仕上がろうという頃、「アメリカの研究所から電話があってね」と本田技研専務から。すぐに、Oさんからだと思った。彼は、初代シビックの開発でインテリアデザインの責任者だったチームメイト。「また大変なことになるかな」との予感がした。
これまで彼から電話があると、必ずと言っていいくらい大仕事となる。何度かこうことを重ねながら、初代のシビックやアコードはアメリカの市場で育ってきた。それだけ彼の情報が的確で、その直感力の凄さは、今や誰もが認めるところである。
HAM(オハイオ工場)で4輪生産が開始されたばかりということもあり、経営陣はアメリカでの販売状況に敏感になっている。ことに、HAMで生産されているアコードセダンの市場評価には神経をとがらせていた。「『ヤング・アコード』をつくってくれと言うんだよ」と専務。
てっきり、HAMのアコードに何か重大な問題がと思っていたから、ちょっと拍子が抜けて、「何ですか、そのヤング・アコードというのは?」と思わず聞いてしまった。「ちょっと日本に呼んで、直接話を聞いてみることにするか」と言うことになり、間もなくOさんは、若いアメリカ人デザイナーDさんを連れてやってきた。
何枚かのスケッチを見せながら彼が言うには、2代目アコードは4ドアを主体につくったので、室内は大きくなり排気量がアップして走りも快適に。その4ドアをベースにつくられた3ドアはつられて値段が上がり、若い連中には手の届かない車になってしまった。
このままだと、ホンダを支えている若いユーザーが逃げてしまうし、そうなれば、ホンダらしさの「スポーティイメージ」まで早晩なくなってしまうと言うのである。「その役目は、シビック3ドアでは駄目なのかい?」と専務。「シビックでは、どうしても実用車の域を出られません」とOさん。それにしても、若いアメリカ人のデザイナーDさんの描くヤング・アコードは、何とも言えないセクシーな雰囲気を醸し出していた。
やり取りが続く。「いくらぐらいの車ならいいの?」「1万ドルを切らないと」「アコードをいくらはぎ取っても、そんな値段では売れないね」「今度(3代目)シビックは、アメリカではいくらで売るつもり?」「7000ドルくらいになるでしょうか」「じゃあ、シビックをベースにつくるしかないじゃないか」と、いつの間にかつくる話になっていた。


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