見出し画像

記録映画「南インド、タラブックスの印刷工房の一日」(2018)

南インド、チェンナイにある出版社タラブックス。そのタラブックス『つなみ』の日本語版が、横浜の出版社三輪舎から刊行される際に、日本側の制作チームに同行撮影し、制作したのが記録映画「南インド、タラブックスの印刷工房の一日」(2018)です。タラブックスの印刷製本の工房であるAMM Screensにて、この『つなみ』がシルクスクリーンで摺られる様子や、そこで働き暮らす職人たちの日常を撮りました。

予告編

先般、東日本大震災から10年目の3.11に合わせる形で、本編を期間限定でオンライン公開しました。さらには、タラブックス『つなみ』の日本語版制作チームと共に、オンライントークイベントも開催しました。タラブックス『つなみ』に関しては、三輪舎のホームページをご覧ください。

画像1

この機会に、久しぶりに本作を鑑賞しましたが、制作からある程度の期間が経ったことで、当時はなかなか言語化できなかった“描きたかったもの”が見えてきました。またそれは、本作以降の制作/方法の基層となっていることをあらためて感じ、少しまとめてみようかと思い立ちました。

音が光景を連れてくる

すでに幾人の方には「音がいい」と、当時その感想を聞いていたのですが、僕としては撮影した素材に自然に付いている環境音なので、そこまで重要とは思っていませんでした。しかし、あらためて今見てみると、けっこう良かったです。音の質が良いというわけではなく、現地の音、環境音がそこにあった光景のディティールを、質感を含み伝えているように感じました。本作を、ヘッドホンを装着して見ていて、ふとコーヒーを入れようと画面を離れた際に、音によって浮かびあがってくる映像的な質感に、ハッとさせられました。例えば、シルクスクリーンの版を擦る音、感光剤を洗い流す水の音、紙を束ねる音、紙を折る音、カラスの声、自動車の音、爆音の現地ラジオ、食器が床にこすれる音、鍋の油が撥ねる音、玉ねぎを刻む音、食材を炒める音、などなど。本作の撮影と一連のイベントもご一緒していて、『つなみ』のデザインも手掛けた装丁家の矢萩多聞さんは、就寝前に布団に入って映画を音だけで楽しむそうです。確かにそうした映像の楽しみ方って(もちろん作品にもよりますが)あるなと思いました。映像はないのに、映像が浮かんでくる。これってある意味、究極の映像とも言えるかもしれません。これは今後、ひとつの方法として、試行錯誤してみる価値がありそうです。

顔ではなく瞳

「顔映画じゃない?」と言われるほど、本作はAMM Screensの職人の顔がこれでもかとクローズアップで映し出されます。もちろん自分としては違和感ないのですが、たしかに、しつこいくらい長回しでずっーと撮っています。(長回しはもう生理的な喜びのようなものがあるので、たぶんやめれないような気がしています)それで、これもまた今回あらためて見てみると、顔というよりかは瞳をカメラで覗き込もうとしているんですね。なるほど、と合点がいきました。というのは、やはり言葉の壁があったので、彼らがどんな生き方をしていて、何を考えているのか?を知りたくても、言葉が通じない。だから言葉を用いて知っていくのではなく、瞳の奥にそれを探し出そうとしたんだと。『つなみ』の翻訳を担当したスラニー京子さんも、先日のオンライントークイベントで、そのことを指摘されていました。要するにポートレイト写真のようなものですが、それを映像なりの方法でもっと試みていくことに、あらためて可能性を感じました。瞳を見ればその人が分かるとはよく言ったものです。それにしてもAMM Screensの職人は、それぞれとても魅力的な瞳をしていました。

それと、本作ではその瞳によって、カメラ(同時に鑑賞者も)が見つめ返されるシーンが度々あります。被写体がカメラを向けられていることに気づき、パッとこちらを見てくる。これは通常、編集でカットしていくことが多いと思いますが、本作では、見る見られるの非対称性について、なんとか健全な関係というものを模索しつつ、自分なりの方法を試みたいという意図があり、あえて使用しています。このことで、象徴的な出来事がありました。撮影中、みんなと一緒にお昼ご飯を食べていたら、AMM Screensのシニアマネージャーであるマニさんが「君らがご飯を食べている様子を撮ってあげるよ」と僕のカメラを使って撮影し始めたのです。撮影者である僕が、逆にカメラによって映し出されることになりました。このシーンも、本編では採用しています。不自由そうに右手を使ってご飯を食べる僕らの様子が、面白かったのかもしれません。

しかしそうは言っても、基本的にはこちらから一方的に撮影をして編集をする作品なわけで、非対称性は無くならず、それは程度の問題です。この倫理的な問いは、ドキュメンタリーの作家であれば皆、どうやってそれと折り合いをつけていくか考えざるをえない命題だと思います。アッバス・キアロスタミ監督のドキュメンタリー作品に「ホームワーク」というのがありますが、これはイランの子どもたちに宿題についてただひたすらインタビューをしている映画です。そして時折意図的に、子どもを撮影しているカメラ自体を、子どもの視線で映し出すショットが差し込まれます。映画の流れとしては、とても違和感を感じるカットが何度も出てくるのですが、これはカメラで撮影していることを、わざわざ晒すことで、被写体である子どもたちとの非対称性を和らげ、さらにはその子どもたちへの敬意を表しているようにも個人的には感じます。

また、より俯瞰的に本作のケースを考えてみれば、タラブックスの本に対する評価や価値基準というものもまた一方的なものであり、そこに対象から見つめ返されるということを映像のなかで鑑賞者が体験することで、その価値基準とやらを相対化し、よりタラブックスの素晴らしさ、魅力を深く考察する機会になるのではないか。そんなことにも制作当時、考えが及んでいたかと思います。

突然、言葉が聞こえてくる

本作では、なかなか唐突に職人たちの言葉が聞こえてきます。なかなか不親切です。内容は、職人たちに通訳を介してインタビューをしたので、その内容から抜粋しています。結構しっかりインタビューをして、カメラも回していたのですが、それはバッサリと不採用にしました。実はインタビュー自体、全体的に普通のことしか聞けなかったという印象がありました。本人たちも、ちょっと緊張していて、しかもみんな、普通に真面目に答えてくれました。ただ、少し予定調和的だったので、そうすると作品の方向性としては適さないものになってしまう。しかし、そんな中でも日本からやってきた見ず知らずの僕らに、素朴な本音や不安などを話してくれることもありましたので、そこを多めに採用することにして、鑑賞者が不意に考えさせられるような言葉と遭遇するという仕掛けにしました。これも、被写体に見つめ返されるということと同時に、人によっては本作に不思議な印象を持つ理由の一つかと思います。ただ、その入れ方がちょっと唐突だったかな、、と今になってみると感じます。意図、というものを作品に反映させようとすると失敗する。そんなことも学びました。

音と、瞳と、不意に遭遇する言葉。以上が、制作当時から期間を経て、個人的にあらためて見えてきたことです。もちろん、それ以外にもあるでしょうし、どう解釈するかは鑑賞者の自由で、ある意味でそれが全てです。ただ自分としては、映像は情報をより良い形で伝えることではなく、何かを証明またはアンデンティファイするものでもなく、カメラで撮り編集で立てていく映像ができる全体性を伴った可能性。それをこの時もこれからも、その形態を問わず模索していきたいということを再確認した。ということです。

さて、最後にお知らせがあります。この記録映画「南インド、タラブックスの印刷工房の一日」の音だけバージョンを制作しました。これをサウンドシネマ版と名付けまして、こちらは無料公開にしたいと思います。前述した通り、音だけで成立する映像があるとしたら、これって究極の映像なのでは...?と今回のオンライン上映の機会を通じて考えたからです(まぁ、遊びです)。もちろん、作品としてこれだけで成立してはいませんが、南インドの空気感、そして日夜タラブックスの本を生み出している工房の雰囲気を感じることのできるBGM映画として、楽しんでいただければ。いつか本格的なものも、作ってみたいと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?