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マントラのすゝめ

「マントラ(真言・祝詞)とは何か?」について何件か質問があったので、今回はまとめて僕なりに解説させていただきたいと思います。あくまでも僕の個人的な解釈ですが。

目覚める前の僕は元々全くの無宗教で、祈るという行為自体気休め程度のものだと思っていて全く興味がありませんでした。しかし目覚めて以降は祈るほどに毎日が奇跡の連続になり、祈りというものにはとてつもない大きな力があるものなのだと思い知らされる日々です。何せ全知全能の創造主がその分身の神仏を通じて祈りに応えて力を発揮するワケですからね。

もしもあなたが祈っているのにその力を受け取れないのなら、信仰対象と縁が薄いか、強い信心を持たないまま祈っているか、エゴに捉われてみんな(ワンネス)の平和と幸福のために真摯に祈っているわけではないからでしょう。

全知全能である創造主はあなたの願いなど祈る前から全部知っているのです。それが叶わないのは、必要な伏線が回収されていないからであり、その願いが愛ではなくエゴによるものであることが主な原因です。だからエゴが満たされること(結果・見返り)を求めず、心の中を持てる愛(善意)でいっぱいにしながら、真摯にみんなのために祈って下さい。

マントラは基本的に経典が元になっていて、それがとても難解であるかのようにイメージされていると思うのですが、そんなに難解だったら世界を救うことはできません。解説書と共に読んでみれば驚くほどわかりやすいものであることに気づかれると思います。深い部分まではなかなか読み取れなくても、決して我々一般人に理解できないようなものではないのです。どうしても最初は見覚えのない言葉ばかりで難しく感じられるかも知れませんが、解説書には注釈があるでしょうし、もしなければネット検索すればいいだけで、知らなかった言葉の意味さえ理解していけば、後にはスラスラ読めるようになります。

仏教において「真言は音が大切な呪文(おまじない)であり、言葉の意味に捉われてはいけない」みたいなことをよく言われて、意味もわからないままただ唱えさせるところが多いみたいなのですが、意味がわかって思いを込めて唱えるマントラと、ただ単に音の暗記で唱えるマントラとでは、同じマントラでもまったく力が違うのです。確かに解釈は人それぞれですし、誰かの訳に捉われ過ぎるのは良くないことではあるのですが、だからといって意味を全く考えず思いも込めずただ唱えればOKということではないのです。

今回は純粋にマントラのお話なので詳しくは触れませんが、マントラの効果を更に高めたい場合は三蜜(身・口・意)と言われるように、マントラを意味を理解して思いを込めながら唱えるだけではなく、本尊などのイメージを拝むことによってよりイメージを強化しながら祈ったり、印を結んだり、仏具などを用いながら祈るなど、きちんとそれぞれの宗派の作法に沿って祈ると良いです。この世界の全てはフラクタル(相似形)に作られていて、それは同期・連鎖するものですから、型を神仏(のシンボル)と合わせるというのは、祈りの力を強めるために大事なことなのです。(思いの方が大事なのであまり形式にとらわれ過ぎてもいけませんが)

僕がよく唱えるマントラについては、こちらのドライブにアップしています。僕は音の記憶がひどく苦手なおかげで、意味がわからないマントラは全く覚えられないので、常に意味を理解しながら覚えています。訳し方が正しいかどうかは保証しかねますので、あくまでもご参考まで。唱え方はYouTubeなどに動画があるので検索してみて下さい。複数バリエーションがある場合は、自分が一番心地よいと感じるものを選んで下さい。

僕が儀式でかける曲も多くがマントラの曲です。音楽に合わせて覚えると覚えやすいので、どうぞご参考下さい。

「言霊」と呼ばれる通り、一語一語、一音一音にはきちんと意味があり、そこには霊魂・神が宿っているのです。それがなぜかというと、かなり根源的な話になり、途方もなく長くなるので今回はさらっと流しますが、すべての「存在」の根底には概念だけの世界があり、そこでは概念上起きる可能性があることはすべて起き、概念が思念化したのが創造主であり、その創造主の思念が概念の一つ一つに主体者(神)としての思念・個性を与えたのです。だから一つ一つの概念とそれを表す音には言霊・神が宿っているのです。この世界のすべての存在は究極多次元的な超ひものバイブレーションによってできているのであり、世界は概念・思念オーケストラの如きもので、概念・音の中には抽象化された神がいるのです。そしてその姿と力をこの次元に具現化してその力を発動するのが我々のイメージ・思い・祈りであり、それを強めるのが三蜜(=身口意)を合わせたマントラということです。

「音とは何か?」ってことについては、「音と水の存在意義」をご参照下さい。音のバイブレーションは思念の乗り物なので、思念を込めずにバイブレーションだけ(思念を込めずに唱えるだけ)ではダメなのです。

言葉というものを人間の発明品みたいに思っている人が多いかと思いますが、純粋な人間の発明というのは何一つなく、すべて神から贈られたものなのです。

そして最初に物質ありきで、それが誰の意思も介在せずに勝手に進化して思念を持つようになったと考えるのは大きな誤りであり、すべては概念⇒思念⇒物質世界の順で構成されているのです。確率などで考えてはこの世界は生じ得ません。概念・思念が物質世界を創り出しているのです。聖書に「最初に言葉があった」と書かれている通りです。

世界というのは、砕かれた磁石のように粉々にされてそれぞれに分離意識を与えられて反発し合う我々が、愛によってお互いの個性を尊重しながらまた数珠つなぎに一つに還っていく(ワンネス)までの物語であり、それは流れる砂絵のように永遠に繰り返されるのです。そしてマントラというのは、そのためにあるものなのです。エゴ(斥力・分離意識)を溶かし、愛(引力・ワンネス)に目覚めさせ、自分(世界)の神仏を目覚めさせ一体化し、すべてが陰陽二元的に作られたこの自分(世界)を愛一元(ワンネス)へと還していくためのバイブレーション(音+思念)ということです。

ですので有名なマントラというのは、そのほとんどが以下のように大別できると思います。
①世界の平和と幸福を祈るもの(ワンネス)
②人として生きた神仏たちの名前・偉業・特質を讃えるもの(個性の尊重)
③覚り(真理への目覚め・智慧・愛)を求め祈るもの(ワンネス)

神仏も苦労してこの世界を人として生きて卒業し、みんなを救う存在として活躍しようとしているわけですから、やっぱり人から信じられ、頼られ、讃えられ、感謝され、愛されたら嬉しいに違いありませんし、神仏についてよく勉強し、無心にマントラを唱えて「愛によるワンネス回帰」へ向けて祈る人に、ご利益を与えずにいられるわけがないのです。ただ、それ(結果・見返り)を期待し動機化して祈ってはいけないのですけどもね。あくまでも神仏を讃えることができるということ自体を純粋に愛すべきなのです。本当は我々は創造主自身であり、他のものは一切存在しないのですから。

初心者はいきなり長いものにチャレンジせず、短いものから覚えていった方が良いと思います。ドラクエのイオ、イオラ、イオナズンみたいな感じで(笑)基本的には長いマントラの方が力はあります。

「自分は記憶力が悪いから…」なんて言う人でも、そらで歌える曲が何曲かはあるはずです。自分の好きな神仏の、できるだけ短いマントラから覚え始め、長いマントラでも、自分の好きな神仏のマントラなら、意味を理解しながら音楽に乗せて何度も唱えれば覚えられます。マントラは自動的に口をついて出て、自分がそれを聞いている感覚になるとより思いを込めることができて力が増します。

なんか秘伝の呪文のようなものがあってそっちの方が力があるなどと考えないで下さいね。そういうのの多くはきっとエゴのための祈りであり、それは呪いのようなもので、もしそれで得をしたように感じても、結局は後々カルマを清算させられることになるのです。まして呪いそのものみたいなマントラは絶対に覚えないで下さい。「人を呪わば穴二つ」と言われる通り、全部自分に返ってきますから。マントラはあくまでみんなのために唱えるべきで、心の底から存在の全てと和解できていなければ、存在の全ての源である創造主の力はうまく発揮されないのです。

有名なマントラというのはそれだけ力があるからよく唱えられていて有名なのであり、有名なものから覚えていく方が手っ取り早く楽に覚えられ、また多くの人と祈りに込めた思いを共有しやすいので、祈りの力が増して願いがより叶いやすくなるのです。

マントラは基本的に宗派などによって微妙に違っていたりするのですが(語句・発音・アクセントなど)、他の人たちと一緒に祈る時は必ずその場の皆さんの祈り方に合わせるようにして下さい。くれぐれも一人だけ調子が違う唱え方をしないで下さいね。迷惑になりますし、祈りも通じにくくなるので。マントラは合唱と同じで音を合わせることがとても大事なのです。思念のオーケストラであるこの世界に影響を与えようとしているのですからね。

さて、一つ一つのマントラの解説は前述のドライブにありますので、今回はマントラでよく使われる言葉の意味を深堀りして解説させていただきたいと思います。

まずオーム(オーン)から始まるマントラが多いですね。「宇宙の仕組み」に書いた通り、この世界は2次元的な回転メディアに光が当てられ3次元的に投影されたものであり、回転メディアがスタートするとき(人生・世界が始まる時・光によるリード&ライトが始まる時)の音がオーンなのです。音(オン)であり、スイッチON・接している&繋がっている&上に乗っているのONということです。それは創造主から我々に与えられた恩(オン)なのです。それを恨み(怨)で返してはならないのです。

回転開始の音オーム(オーン)に対して、回転停止の音がフーム(フーン・フン)・吽(ウン)であり、物語の終わり(アセンション・成仏・覚りの完成・彼岸)を意味していて、マントラの最後に置かれることが多いです。オーンからフーンまでで一つの人生の物語を表して神の名前と偉業を讃えているというイメージです。だからこの言葉には霊障(霊的な穢れ)を祓う(成仏させる)力があるのです。

オーム(オーン)で始まるのに、最後にフーム(フーン)・吽(ウン)がないマントラも多いですが、オーム(オーン)自体、細かく分けるとA・U・Mであり、それぞれ創造(ブラフマー)・維持(ヴィシュヌ)・破壊(シヴァ)が象徴されており、その一語だけで人生・宇宙の循環、ひいては世界そのものを表しているのです。大千三千世界の中の大劫を表しているという感じです。仏教の宇宙観についてはこちらの動画の解説をご覧下さい。

今回は詳しくは触れませんが、仏教の宇宙観というのは如実にこの世界を表したものであり、ゲーム機のモーター(風輪)の上にディスクが重ね合わされており(金輪)、その上に3Dスクリーンのように投射された我々の物質世界があり、それが中心の穴(DVDの穴・ブラックホール・須弥山・上位次元との交差点)によって重ね合わされ・固定され・束ねられているというイメージです。

また息がピッタリ合うことを「阿吽の呼吸」と言ったりしますが、この「阿吽((あうん)」はこのAUMからきています。始まりと終わりが整っていれば呼吸(波動・周期)というのは合わせられるものなのですね。キリスト教のアーメンもこのAUMが語源だと言われています。

宇宙に鳴り響くこのオーム(オーン)という聖音は、虚数時間軸上にあるために我々には聞こえません。ゲームの中のキャラクターたちにゲームディスクの回転音が聞こえないように。しかし我々が生きている間ずっと鳴り響いており、それはこのRPGの内側にいる我々に聞こえなくとも、我々がこの次元・時間軸上で同じ周波数の音を出せば、虚数時間軸の音波とも同期(連動・周期)するのです。だから上位次元の存在にも我々の願いというのは届くものなのです。それはちょうど電磁波がお互いに連動・周期しながら伝わっていくのと同じイメージです。(次元というのは波を表せる軸の数であり、ある軸の波動はそれと交差する軸の波動と連動・周期するのです)

そして電磁力の如く神の力が発揮されるのです。ネガティブな思念もネガティブに力を発揮するのでご注意下さい。

ちなみに古事記で人間界に降りて来た神があまりのうるささに驚いたというような記述がありますが、それは波動の軸が同じになったために、音の波が完全に同期して増幅してしまったからなのでしょう。

我々が唱えるオーム(オーン)というのは、虚数時間に鳴り響く宇宙原初の音と同期(連動・周期)させる(始まりを合わせる)ものであり、いわば上位次元の存在にかける電話の市外局番のような役割を果たしているのです。それによって我々の思念が上位次元の神々に通じるのです。それがいかに重要なものであるかは、ここまで読んでいただければご理解いただけたかと思います。

さて次に、スヴァーハー(ソハー・ソワカ)で終わるマントラも多く、これも非常に重要なので、これも解説させていただこうと思います。

これは「幸あれ」「(願いの)成就あれ」「全ては神(創造主)の御心のままに」という意味であり、またキリスト教のハレルヤのように神への賛美・感謝を表した言葉でもあります。神道の祝詞では最後に「かんながらたまちはえませ」と唱えることが多いですが、これも「神の御心にすべてを委ねます。どうぞ良き方向にお導きください」という意味で、ほぼ同じなのです。

なぜそのような言葉が最後に来るマントラが多いのかというと、これもかなり根源的なところから説明しなければならないのですが、やはり詳しく説明すると文量が多くなり過ぎるので今回はサラっと行きます。

創造主というのは全知全能であり、何でも思っただけで思い通りになるので思い自体に意味がなく、何も必要とせず、すべての結果が最初からわかっているので、何も面白くなく退屈なのです。

だから創造主はあえて愚かで能力が低く、著しく不完全に見える姿でこの世界に分け御霊として生まれ、人間として成長を楽しんでいるのです。

思っただけで全部実現してしまう創造主は、この世界で「思い通りにならない経験」を通じて「思い通りになる喜び」を経験するために分け御霊として生まれてきているわけで、創造主である自分と分け御霊たちの思いが通じ合った時に、その力を発揮してくれるわけです。

だから祈らない・願わないなら、それは叶わないのです。人間が祈らなくても創造主がその願望を叶えてしまったら、「思い通りにならない世界で願いが叶った」という経験ができないので、人間とこの世界を創った意味がないのです。もし何でも人間の思い通りになったら誰も祈ったり願ったりするわけがないでしょう。

しかし結局我々がこの創造主から与えられた人生というRPGにおいて、何を祈り願い、自由意志によりどんな選択をしようと、我々のクリエイター(作者)である創造主が描いたシナリオから逸脱はできませんし、それをしようとするのは映画俳優が監督の意思に逆らってストーリーを変えてしまおうとするようなもので、傲慢・不遜であり越権行為なのです。そしてそんなことをするようでは映画監督たる創造主からの愛を十分には受け取れないのです。

バガヴァット・ギーターでクリシュナが教えてくれている通り、我々にとって大事なのは、結果(見返り)を求めず、物語と自分の配役を与えられていることにただ感謝して楽しみながら自分の使命(主人公・メシアとしてどのようにして世界を救うか)全うしていく覚悟であり、自分のエゴによる願望などは、既に与えられているものに感謝せずに不平不満を言っているに等しく、それは傲慢・不遜で創造主の意思には反しているので、その祈り・願いはきっと叶わないか、叶ってもカルマを積んで後々清算させられることになるでしょう。それは「引き寄せの法則の真実」にも書いている通りです。

ですからスヴァーハーは「幸あれ(みんなが幸せになりますように・願いが成就しますように)」という思いと「すべては創造主の御心のままに(結果・見返りを一切期待せず、ただ感謝しながらあなたの用意して下さった物語の中で自分の使命を果たします)」という思いが同時に込められているのです。つまりスヴァーハーは祈り・願いに含まれるエゴ(我欲・不平不満・傲慢さ・独善)を浄化してくれるのです。

生まれの格差について(陰謀論)」に書いた通り、RPGで世界が魔物に支配される一歩手前のディストピアから始まって、そこから主人公が大逆転劇を起こすシナリオになっているのは当たり前の事です。不幸はそれを経験しないと幸福を感じることはできないから与えられているものであり、決してそれを恨みで返さないことです。創造主が自分の分身に意地悪で不幸を与えるために世界を創るわけがありません。それを信頼し、祈りに込めることです。世界の平和と幸福への祈りが尊いのは、世界(の初期設定)が平和でも幸福でもないからです。

マントラは、愛する我が子が夜中に熱を出し、親が背中に背負って町医者を一件一件回って戸口をノックするような気持ちで、そしてその愛する我が子が地球であり町医者が神仏であるようなイメージを持ちながら、必死に何度も唱えて下さい。神々はあなたのその世界の平和と幸福への願いを知りつつ、あなたの必死さ・敬虔さを試しているのです。

自分が認識できる世界のすべては自分の心の反映なのであり、すべてがフラクタルに作られているのですから、神仏という存在を自分の外側にいると思わず、内側にいる神仏を呼び覚ますようにして祈ってみて下さい。

というわけで、冒頭に書いた通り、エゴのための祈りではなくみんなの平和と幸福のため(ワンネス回帰のため)に思いを込めた祈りというものは、すべての存在の根源たる創造主の思いに適っているので、とてつもない力があるのです。それは決して気休めなどではないのです。毎日何度も唱えることでその聖なるバイブレーションによって心身が清められ、自分の中の神々が目覚め、心の中が愛(善意)で満たされ、カルマ(霊障・罪穢れ)が解消され、人生が素敵なシナリオに導かれ、見返り(結果)など求めずとも(求めないからこそ)願いがどんどん叶うようになります。騙されたと思ってせめて一カ月でもお試し下さいませ。最初は半信半疑の祈りでも、縁ある神仏と出会えたのなら、きっと奇跡が起こり、より強い信心を伴った力強い祈りとなることでしょう。

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