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母の最期

昨年末に母が79歳でこの世を去り、父の元へ旅立った。

父が亡くなり母と一緒に暮らすようになって、5年目のことだった。

元々リュウマチを患っていたが、10月ごろに脳梗塞になりボケ始め
いよいよ介護段階かと覚悟を決め始めた時だった。


11月に入って下血が止まらず、救急車で息子家族が住む隣町の少し大きな病院へ入院した。

救急車で運ばれた時、母は私に
「迷惑かけてごめんね」
と言った。

ちょうど世の中のコロナが収まっていた時期だったため、病院にはすんなり受け入れてもらえたが、面会は全面禁止。そこが心配だった。

病院全体で面会禁止なんだから仕方ないんだけど、携帯もなにも持たない母は精神的に隔離された状態になるだろう。

そして心配は的中した。

12月に入って担当医に呼ばれた時は、肺のレントゲン写真が真っ白になっていた。体中が管に繋がれ、会話はできるもののボケも混じって不安定だった。

いつどうなってもおかしくない状態。
そんな説明だった。
やっと面会が許されたので、短時間でも母に会うために病院へ通った。

12月15日が父の命日。
父が迎えに来たかな…そんな話を家族としていた。

ちょうどその頃、母の兄の息子、私と同じ歳の従兄弟が脳梗塞で突然亡くなった。90歳近い母の兄たち、そして姉が集まり葬儀が行われる中で、母の状態を伝えた。

伯父たちは葬儀を終えて、その足で面会に来てくれた。
歳をとった伯父たちを連れてくるのは、その息子たち。従兄弟の葬儀があったからこそ全員が集まり、母もみんなに会えた。
この時は、亡くなった従兄弟に感謝した。

母は兄姉に会えて喜び、その後「がんばる!」と言って、先生がびっくりするほど回復した。

体中に繋がれていた管は取れ、自発呼吸もできるようになった。

いよいよ介護の準備を始めるため先生に退院の目処を聞こうと、翌週アポを取った。そして先生と約束したその日、母は発熱した。


その日の朝、私の娘が夢を見た。

その夢は亡くなった親戚が、娘の部屋に大勢集まって楽しそうに盛り上がり
何かのお祝いをしていた。
知っている顔もあれば、知らない顔もあったが、親戚であることは間違いない人たちの中で、祖父、私の父であり母の夫だけがいない。

少し経つと車から祖父が登場した。
その様子は、若い頃の祖父でかっこいい。
とても嬉しそうに部屋に入ってきて、みんなにおめでとうと言われていた、と。

死ぬのを怖がっていた母のために、みんなが集まり迎えにきてくれたのかもね、と話をしていた。


そしてその翌日。
病院から連絡があり急いで向かったが、送り出すのには間に合わなかった。
それでも表情は安らかで、みんなに迎えられたことがわかった。

お疲れさま。がんばったね。ゆっくり休んでね。
お母さんの娘で幸せだったよ。
ずっとずっとありがとう。大好きだよ。
お父さんと仲良くね。


死について、色々な考えがあるだろう。
でも私は、死ぬと幸せな場所へ戻ると信じている。
体があるこの世では不自由だった母も、体を離れ父の元へ逝けたことは幸せに違いない。

私も体がある今だからこそ経験できることを思い切り自由にやろう!と思った。何も怖くない。死んでも幸せなんだから。

読んでくれてありがとう❗️ 自由を愛するアーティスト✨ 自分に何ができるのか?可能性を発見し、毎日を楽しく生きることに挑戦しています。誰もが本当の自分と繋がり、豊かに幸せを拡大していける。一緒に実験する仲間も募集中です❗️