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「社交辞令=マウント奪取」は思考のプロセスエラー?


以前、「承認欲求」という言葉を覚えたとき、まずは自分の承認欲求を恥じた。けれど、承認欲求もそんなにわるいヤツじゃないと気付いた・・・ということを書いた記憶があります。ただ、ここnoteではなかったかな…。


お察しのとおり今回の掘り下げワードは「社交辞令」でーす。


私は「駆け引き」とか「社交辞令」がホンマにきらいです。なんて言うか、小馬鹿にされている気分になるからが大きな理由のよう…というのも、社交辞令を素直に間に受けていた自分に気づいたことから「怖っ!」「やばっ!」「チクショー!」で、きらいになったからです。

悔しかったしとても哀しかったのです。人の中の小さな悪意が膨らんで社交辞令になる…と体感するのはあまりにも怖がりな考えでしょうか?


子たちがCMやら動画を見ると口々に「このCGすごい」とか「このCGイマイチ」とかCGについて頻繁に考察するわけです。私が子どもの頃にはあんまり考えたこともないコンピュータグラフィックスの世界を今の子は生きているんですよねー。


私は、いい大人になって、つまり大学新卒の23歳の年にちっちゃな広告代理店で働いていました。(体壊してすぐやめた)ある日、電車の中吊り広告に競馬のモノがあるのをみつけます。優駿が10頭近く整然と並んでVの字だったか、を描いていました。

当然のように、その様を「CGだ!」と子たちは言うでしょう。実際、そうなんだと思います(笑)ただ、当時の私はそれをCGだとは思いたくなかった…「CGっしょ」と話しているカップルの言葉に「ちがうわ!」と言いたくなったことを思い出しました。若いというか、世間知らずというか…。かわいい(自分で言う)


『ネバーエンディングストーリー』という大好きな映画があります。1980年代当時としてはキレッキレのCGを駆使していたと思います。無論、子たちがみたら驚愕するような「バレバレ感」があるかもしれませんが、今もって私には十分すぎるファンタジーの世界です。


CGの存在を知って観る映像は「CGそのものの良し悪しとか評価」に目がいってしまうけれど、脚色のために必要なCGに対して驚いたり感動したりすることを私は気持ちイイと感じるようです。

ということを映画『THE BATMAN』をIMAX上映で観ながらも考えていました。


唐突ですが、大学生の頃のこと。肩までの長い髪と子犬みたいな目がチャーミングな先輩に恋をしました!(きゃー甘酸っぱい!)女性か男性か一見判断できないけれど、喋ると「あ、男性…」みたいな全体的にやらかい雰囲気の人でした。(きゃー!当時の友人にもうここでバレてるーw あ、友人・知人のほとんどTwitterもnoteも知らせてないんやわー)

ちなみに、先の『ネバーエンディングストーリー』に出てくるアトレイユ(ノア・ハサウェイ)もロン毛で女性か男性かわかりにくい容姿をしていました。いや、どちらかと言うと女性っぽく私は捉えていた気がします。

私が小中高通してガチ恋寸前に大好きだった、切り抜き集めまくった俳優さんでした。現在はマーシャルアーツのインストやらタトゥーアーティストやら俳優やら、マルチに?活躍しているそうです。が、アトレイユの面影はなく…。


先輩の姿を見ているだけでドキドキの生娘19歳の私でしたが、当時仲良くなった金髪女子(日本種・京都)の口から、先輩に私の気持ちが伝わります。伝わってしまいました。

そして、経過を猛烈に端折って結果を言うと、付き合い始めた…のは「ロン毛と金髪のふたり」でした(ホラーかよーー)。混乱する恋愛超初心者の私は「こんなことって本当にあるんだな」と俯瞰で見ては二人の様子を目にする都度、無になって自分に感想を述べていました。冷静なようでいて、やはり部活の仲間とあり…どちらにも会う日々にはつくり笑顔で顔筋がヒクヒクする毎日でした。


その後も先輩は優しく接してくださいました。むしろ、前より親し気に話しかける頻度もすごく多い…。周囲への「俺たち仲良しアピール」もなんだかあざといくらい…。かけられる言葉は社交辞令だとわかっているけどついつい信じてしまう自分がしだいに惨めに感じられたものです。

「優しくするな、ロン毛」「社交辞令ヤメれ、ロン毛」ツンと突けば涙が溢れ出しそうな気持ちと ドキドキ嬉しい気持ちとの間でぐわんぐわん翻弄される日々でした。今思うとその頃の自分を抱きしめたいくらい健気に笑っていました。


金髪はロン毛の私への対応が「あまーい」ことに気付きモヤり進言したようでした。ジェラシーですよね。わかりやすい。かわいい。で、ロン毛の答えが「俺はモテへんから、(私)ちゃんみたいな素直でやさしいイイ子から好かれているっていうことを手放したくなかった」だったそうです。(金髪談←私に言わんでよし。)

そうよね、金髪は私とは容姿も性格もきっと真逆…。答えの要約を追加すると「(私)ちゃんは恋愛対象としては全然見られんけど、俺を好きなんやろ?ってマウント取りたかった…」みたいな?

褒めてくれてはるけど、「失礼しちゃうわ!」と思いました。同時に「すごく素直な人だなー」と思いましたし、「好きになってよかった」とも…。でも、このことを機にすっかり恋心は冷めました(笑)


つい最近、とても信頼していた大好きな人から「それ社交辞令なんじゃ…」と安易に判断し得ることを言われ、ひとり大人気なく盛大に凹みました。どうでもいい人ならよかったのでしょうけれど「ブルータスお前もか」な気分というか、私のエゴ全開で「聞きたくなかったー」と思いました。


社交辞令を言わない人だと思っていたけれど、これまでのアレコレを総合して考えると「そんなこと言うわけない人が言った言葉=社交辞令」と判断した次第。「また近くに来ることがあったら声かけて」って、アータ。年賀状の隙間埋めるんとちゃうんやから…。

受け取り方のプロセスエラーであって欲しい…一抹の期待は潔く手放しました。


もっと困ったことには、私がその人をそもそも信用していないのかもしれない…そんな思いがふと浮かんだことです。これまでは社交辞令を言わない代わりに、その人はたくさんの嘘をついていたのではないか!? 

でも、きっと「やさしい嘘」なんだろうな…vs. でも「嘘は嘘やし!」

もう脳内しっちゃかめっちゃか!「そんな人だったか!」とロン毛の時のように無関心になれないのはツライです。いつになったらフラットに考えられるのだろう…。がんばれ!やればできる子、あたし。


目には目を、社交辞令には社交辞令を? これからどう付き合って行くか、社交辞令は口が裂けても言いたくない私にとってはもう少し考慮が必要な案件です。社交辞令もそんなに悪いヤツじゃないと知って上手に使っていけるようになるのだろうか?
乞うご期待(誰が?)

社交辞令が嫌われるのは、言った本人にその気はなくても潜在的に相手にマウントを取る気持ちがあるからじゃないかな?と思った…その経緯を話したいがたに、大学時代までタイムリープするなんて!

好きな人と仲良しな友達が付き合う…なんて、私にはホラーだったけれど、きっとよくあることなんでしょう。ただ、やっぱり当時の私には強烈な展開で今持って忘れられない記憶になったんだろうなーとあらためて思う、春の嵐の日です。

こんなオチのない話を読んでくださってありがとうございました。


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【後日談という名のオチ?】

ご本人から「社交辞令は言わないです。」という言葉を聞きました。「こんなスタンプいつ使うよ」と思っていたLINEスタンプ、『ずーっと好き!』(コクリコ坂から)を押しそうになって思いとどまりました。チクショー!(T . T)と思った分、やっぱり大切な人だと感じられてよかった…。

「社交辞令を言わない」共通点を得て親近感が増したと同時に、私との決定的な違い「社交辞令はあって全然いいもの」というスタンスでいることも知りました。それが一番かっこいいよ…と思ったのでした。

言葉って厄介です。シンプルであるほど誤解したりされたり…。でも、共通言語をもっているなら(時として持っていなくても)「言ってもわからない」逆に「言わなくてもわかる」という考えかたは横に置いて、「わかってもらおう」「わかろうとする」努力をまずしたい、必要な言葉を尽くしたいと私は思って生活しています。

「言葉にならない・できない思い」は涙に変わって溢れることが多いかも知れません。言葉に頼る割合が多くなると涙もろくなるような実感があります。言葉の中でも文字にする言葉、すなはち文章(おしゃべりではなく…)が長い人というのは、私を含めあまねく泣き虫が多いと分析しています(^^)

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