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強い人と弱い人

自分のことを「弱いなぁー」と疎ましく思う時、そして疎ましさのピークに達した時、その弱さをどうにかするために、一見「強い人」の存在を、私を含む「弱い人」は求める傾向にありはしないだろうか。私はこの数年を振り返り、自分にその傾向があったとつくづく思った。

弱い自分が「一見強い人」にあやかって強くなろうする。まやかしの強さを手に入れて、やがて元の木阿弥に。「こんなはずじゃなかった!」と自分を責める。と同時に「一見強い人」をも秘かに責めている。

「一見」にこだわっているのは私が「強い人」と決めてかかっていた人がまさに「一見強い人」であって、実は「弱い人」だと気づいたからだ。

共倒れが如く、私は全然強くならないという骨折り損…。「この結果からも学びはある」のは事実として、その学びを「一見強い人」から期待されるのはどうだろう?

「学びやなんて、どの口が言う?」

私は全ての責任をその人に押し付けて憤慨していたんだなーと思った。しかも無意識に押し付けるという質の悪いヤツ。一見イイ人ぶっていた私はその憤怒を相手にぶつけることも出来なかったのだ。朱に交われば赤くなる…が如く、「強さにあやかる」この方法はもう私には必要ない。「強くなったから!」とは到底言えないけれど、そもそも私は表面的なばかりの強さは求めていないとわかったから。

「一見強い人」のもとを離れ何年も経つ。あの人は強くなったかな?そうだとイイなと思えるようになった僅かな余裕が、近いうちに本物の強さに変換される気がしている。

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