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競争しようとしてもしづらい状況なったとき、競争から得ていた達成感と安心感はどんな形になるんだろう

医療関係者の方々に最大限の感謝を述べつつ、お家でできることを増やしていくことでエールにかえたい。

TrueNatureMeditationでオンライン受講始まりました。木曜の朝7:30〜8:15と、火曜夜19:00〜19:45のクラス(期間限定)を担当しています。

今日も仏教の六道のテーマにそって勉強中。考えてみたことをつらつらと。

パワーとコントロールと競争について。社会の仕組みとか業態とか変わっていくことでこの辺りも大きく変わっていくんだろうなあと。もちろん新しい仕組みができても新しい競争があることはきっと変わらない。でも成功する人・コトはきっと変わっていく。

一方で、パワーとか競争、そのものがもつ意味合いや動機、質や手触りが今までと変わっていくことはないだろうかと考えている。

競争のもつ色あい

オシャレなカフェ、どこどこ産のこだわり食材、有名なシェフやレストラン、どこどこのバッグ、高級な車、質の高いライフスタイル。もしくは自慢できる友人、夫、恋人。会社や家庭での地位、発言力、権限や名誉。

自分をもっとよくしようとしたり、より多く、質の高いのものを望んだり、そんな気持ちには程度の差こそあれ誰でも心当たりがあると思う。

ただ物質的なものにせよ、精神的なコトにせよ「もっともっと」の状態は今に満足することがなく根本的な不安定感の感触が根底にある。

「もっとよく見せたい」「もっと前進させたい」「もっと最高のものを」「もっと独創的な」 「もっと強く」

仏教の六道の世界ではこれらの心のパターンは阿修羅道に代表される。

競争の結果、社会的地位や生活水準、地位も高いこともあるだろう。だがそれを維持するためにおい立てられて落ち着いていられない。うかうかしていると失ってしまうかもしれないからだ。なので常に上を目指していく。その為に必要なら策略だって練る。うまいこと言って人を操る。そうすることで自分が生き残っていく。それを通じて正しいことがきっと実現できる。そのためなら多少の犠牲もしょうがない。

阿修羅だ。

競争で満たされていたもの

欧米でDVが増えているという話を聞いた。ビールもよく売れているそうだ。家庭でのフラストレーションが増えているのだろう。今まで満たされていた欲求が満たされなくなったフラストレーションや、コントロール下におけない状況が手に入ったことも関係していないだろうか。

新たな安住の地を戦って作っていく必要がでてくる。相手が家族だろうとそうでなかろうと関係なく。自分が中心になってくる。思いやりを持つことが難かしくなってくる。協力できなくなってくる。気遣いができなくなってくる。優しくなくなってくる。

阿修羅道のポイント

他人との関わりについて考えるポイントだ。仏教の考え方では物事は無常であり、あらゆるものとの関係性の中で物事は成り立っているとしている。他人との関係性なしに生きていくことは難しい。むしろ不可能だろう。あらゆるものに自分以外のものとの関連がある。

肉体を例にとると分かりやすい。昨日食べた肉。牛が食べていた草、水、育てた人、捌いた人や機械、配送した人、調理した人、あらゆる関連があって今自分の体のタンパク質など体の一部となっている。

え、それって自分の体って言えなくない、、、? 昨日飲んだ水はちょっと前まで雲だったかも?

何か自分の体を証明するものがあるかって問題がでてくる。そんなものはないと思っている。DNAでさえ両親から受け継いだものだ。

他を蹴落とす方向ではない。優越感に浸って他との関係性を見失ってはいけない。他とのよい関係性を築くことが難しくなれば、真実からは遠のいていく。

利益を守ろうとするのではなく、大切なのは協力することなのだろう。文字通り自分だけで生きているわけではないことを理解することが重要だと思っている。

転換する

私たちが練習したいのは、この精神状態の性質を転換していくことだろう。実際に多くの発明品や発見や改善はこの世界で為し遂げられている。阿修羅道のすべて悪いということではない。自分自分へと向かう方向性が問題だということだ。PCやiphoneの恩恵に預かっているがこれらがすべて悪いものだとは思えない。実際、今更これなしでの生活は難しい。

競争の世界がもつ性質は、鋭さや知性、大胆さ、勤勉さやハードワーク、やり遂げること、または状況を前に進めること、などだろう。

これを優しさやおもいやりと結びつける方法を考えていきたい。

他人の幸福が自分の幸福と深く結びついていることを理解するにはどうすればいいだろうか。

それは「自分」「自分」「自分」という感覚をとりのぞいていき、家庭の中で、組織の中で、社会の中で求められていることを理解することではないだろうか。そこで得られる喜びは個人で達成する喜びの比じゃないくらいの喜びだ。

苦しい状況や敗北を感じる状況は辛いことも多いけれど、他人のありがたさや、他人の辛さも理解できるようになる。あらためて思いやりを育むいいきっかけにしたいと思う。

私たちが学んでいるチベット仏教では、この思いやりを育むための具体的な練習方法も用意されている。ただしマインドフルネス・メディテーションをはじめ、基礎トレーニングができてからの方が望ましいのでここでは紹介しないが、興味のある方はぜひ門を叩いてみていただきたい。



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