生み出す「概念と価値観」が未来を作る

サッカーのコーチなので、やっぱりサッカーの話はするが、そこに行く前に例を出してみる。


最近テレビでカラオケを歌う番組をよく見かける。
ただ歌うだけでなく、カラオケの採点機能を使って、成否や勝敗を決めることでゲーム性を出しているような番組だ。

カラオケ採点機能では点数を出すだけでなく、メロディラインを正確に追えるかどうかをリアルタイムで視覚化することもできて、それを1音でも外したら即終了、というゲームにしている番組もある。

この採点機能や番組によって

・機械が平等な基準で歌に点数をつける
・メロディラインの可視化
という概念が生み出され

・採点点数が高い方が優れている
・メロディを正確に捉える方が優れている
という価値観が生み出されている。

このカラオケの採点機能で優れた結果を出す人ほど「歌うま」と番組では評したりする。

ではこの採点機能がここまでになる前は、「歌うま」とはどのような人を指しただろうか。
おそらく、その歌を聴いた人の感情が動かされる歌い手、より多くの人がそうなる歌い手、などを指していたのではないか。

歌を聴くのは人であり、歌は上手さを競うようなものではなく、近くの人と感情を共有するために自由に表現するようなものだったが、新しい概念と価値観によって、客観的な数字で「歌が上手い」を目指せるようになったと同時に、歌が上手いという判断を機械に委ねることになり、機械の採点に最適化する人を優良として、歌が正確性を評価されるようになった。

タイトルにある「概念と価値観が未来を作る」の一例。

ちなみに私としてはこの傾向は、歌がとても窮屈なものになったなと感じている。
昔の友人で、音程は外れていたのだがなぜか聞いていて気持ちがよい歌い方をしていた人がいた。
必死さとか声質とか歌詞に気持ちを込めているとかで、私の感情が揺さぶられたんだと思っている。
お手本をなぞることを良しとする価値観では彼の良さはきっとわからないだろうなと。

閑話休題。


他の例として、「学校のテスト」について話してみる。

学校のテストとは本来、現在の理解度を測るためのもので、その結果によって今後の学習プランを決めていくためのものだったのではないかと考えている。
だからテスト結果で一喜一憂するものではなく、自分自身や指導者が「ああ、ここの理解が足りてなかったのか」と気づき”次に活かす”ためだけのもの、がテストだったのではないかと。

だがいつしかそのテストに「成績」という概念が加わってくる。
テストに点数があり、その点数を実力とし、優劣の評価が下される。
その優劣の評価は自身の選択肢や環境の優遇にも関わってくる。
次に活かすためのテストだったが、テストそのものが目的に変わる。
新しい概念と価値観が生まれた瞬間だ。

「テストして課題に気づいて学習してまたテストして」と人が本来学習を楽しめる環境だったはずが一転、「テストで高い点を取るために学習する」という変化が生まれ、テストに失敗が許されなくなり、勉強は好奇心でするものではなく、居場所を確保するためにするもの、のようになっていった。
という仮説。
この仮説があっているとすると、その新しい概念と価値観が、塾などの産業を生み出すことにも繋がった。

前述の歌の例と同様に、私としては「成績」という概念とそれによって作られた価値観が、勉強をつまらないものにしているな、と思っている。

とはいえ、例に出した歌もテストも、新しい概念と価値観によって、別の楽しみや経済効果も生み出しているので、一概に良いか悪いかは言えるものではない。

ただ、その概念と価値観によって、人々の行動が変わっていることは覚えておいてほしい。
概念と価値観が未来を作っている。



さて、ではサッカーのコーチらしくサッカーの話をしてみる。

歴史の古いサッカーでも、プレーに対して未だに新しい概念が生み出され、その価値観は競技人口に比例して様々だ。
とはいえ各々の文化圏で概念も価値観も似てくる。

カラオケが「点数」「音程」で示したように、テストが「成績」で示したように、サッカーでもやはり”言葉”が概念を示し価値観も生み出す。

コーチがなんの意識もなく選手に「1対1だ」と言えば、グラウンドの中に1対1の概念が生まれて選手はその状況を切り取れるようになり、その1対1の状況に客席から「勝負だろ」という声が聞こえれば、1対1に勝ち負けがあるという概念も生まれる。

新しめの概念だと、「5レーン」という言葉がサッカー界を賑わせた。
ツイッターなんかやってるコーチはみんな試合を5レーンで区切って見るようになったのではないか。
新しくはないが「ビルドアップ」なんて言葉も、私が小さい頃にはなかった言葉だ。

サッカーをやり始めた子どもたちに、コーチが初めて教える言葉は、子どもたちの概念と価値観を常に作り上げることになっている。
だからそれぞれの国や地域でよく使われている言葉が、そのコミュニティの概念と価値観となり、行動に影響を与えて、それが積み重なって文化となる。

近年は日本にも海外の情報がよく届くようになった。
テクノロジーの進歩だけでなく、海外で指導者の勉強をした人などが、情報を日本に持ってきてくれるようにもなったからだ。

使われる言葉も、その輸入した言葉がだいぶ多くなってきた。
さて、ではそんな使う言葉が変わってきた最近の日本では、サッカーのプレーに対する概念と価値観に大きな変化はあっただろうか。

概念はかなりの変化があったと思うが、価値観にはあまり変化がなかったのではないか、というのが私の感想。

「言葉」が概念と価値観を生み出すとは言うものの、言葉とは単語だけを指すわけではなく、文章も指すものであり、誰が誰にいつどのようになんのために発したものなのか、という文脈も含むもので、そういった大きな意味での「言葉」が概念と価値観を生み出す。

輸入されて浸透したのは単語が多く、その単語によってサッカーの切り取り方という概念の部分では変化があったが、日常のサッカーの環境での文脈にはそれほど大きな変化はなかったため、価値観にはあまり変化がなかったという考え。

例えば。

前述の「1対1」や「ボールテクニック」をかなり重視している文化だというのはわかりやすい。
You TubeやTikTokのサッカー動画では、それらを詳細に解説したものが溢れかえっている。
ちょっとしたドリブル一つとっても技名やら独自理論やら様々な「言葉」が使われている。
「1対1」や「ボールテクニック」を重視したスクールも数多く存在し、少子化でも未だに増え続けている印象。
おそらく日本独自の文化といえると思う。
解説に使われている言葉はすごく細分化され、他国の追随を許さないレベルで概念化されているのではないかと。
そのため「1対1」や「ボールテクニック」は、それイコールサッカーの上手さと捉えられる傾向もある。
強豪国の単語が輸入されようと、変わらない価値観の一つがこれ。

また、日本の教育面も価値観に大きく影響していると考える。
前述のカラオケやテストのように、既に存在する正解をなぞる/求める、という部分への馴染み(執着?)は、日頃から使う「言葉」にも現れる。
家庭では正解を出して得た良い数字を褒め、世間では”普通”という正解に沿っていることを良しとし、サッカーの場ではコーチや大人が正解とするプレーを要求される。
今の大人がその価値観で育ったのと同じように、それらは言葉となって今の子どもたちに伝わっていく。
メディアでもその文化としての言葉を当たり前のように発信する。
「そう考えるのが当然でしょ?」と言わんばかりに。
この辺の価値観に対する変化を促す輸入もあるが、根強い文化を変えるには至っていない。
敬語とタメ語がある文化において、指導者が子どもたちに敬語を使うことは無いし、気をつけていても高圧的な言い方をすることだってあるはず。
文化とはそういうもの。
それが言葉、つまり概念と価値観を次の世代にも引き継いでいく。


このように、自分たちの取り扱っている言葉が文化を作り、そのまま次の世代にも浸透する。
「言葉」が生み出す「概念と価値観」が未来を作る。

だから今こうやって書いている文章も含め、次世代の人たちが目に/耳にするであろう言葉は、それが文化を作ることになっているという自覚も、コーチのような立場の人には必要なのかもしれない。

あなたは今どんな言葉を使っていて、それはどのような未来を作ることになると思いますか?


おわり

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