サッカーを好きにさせるとか楽しませるとか言ってんじゃないよこのバカチンが

武田鉄矢さん風のタイトル。
そこに大きな意味はなくただのノリです。

サッカークラブやスクールでよくある謳い文句。
「サッカーを好きにさせる」
「サッカーを楽しませる」
それを見ながら思ったことを。

思ったことをそのまま言うと

「別に好きにさせようとしたり楽しませようとしたりしなくていいんじゃね?
好きだから、楽しいからやるんだろ?
つかサッカーって何もしなくても楽しいものだろ?
だから世界中でロングセラーなんだし。
なんでわざわざ“させよう“とさせるんだよ。
嫌ならやらなきゃいいのがスポーツというか娯楽なんじゃないの?
いや、それを好きになることで人生の役に立つならまだわかるんだよ。
ピーマンとかね。
でもサッカーって別にそういうものじゃないでしょ。
ほいでむしろその“させよう“が逆につまらなくさせるんだよ。
お前はあれか?
例えば恋愛物映画に興味ないとして、それを好きにさせてもらおう!ってなるのか?
ならないだろ。
むしろそれが好きなやつからそれをゴリ押しされたらドン引きするだろ。
“好きにさせよう“ってのはそういうことじゃんか。
そいつの“楽しませよう“という思いから解説パンフレットとか貰ったら
え〜重っ!そういうのいらないよ、ってなるでしょ。
結果的にそれで好きになって楽しむこともあるだろうけど、そうじゃないことの方が多いだろ。
だから“好きにさせよう、楽しませよう“とかやることこそが“好きになる、楽しむ“の邪魔をすることなんじゃないの。
謳い文句にするなら
“我々はサッカーを好きになる、楽しむ、の邪魔をしません“
もしくは
“我々はサッカーをつまらなくするような行為をしません“
だな!
それなら信用できる」

です。
人間性が歪んでますね。

まあとはいえその「好きにさせる、楽しませる」に需要があるからこその謳い文句というのもわかりますね。
「サッカーを好きにさせたい」と思う親の多いこと。
なんででしょうね。
運動を好きになってもらいたい!からの派生なんですかね。
だとするとその運動を好きになってもらいたいの元は何よ?
きっと“健康“なんでしょうよ。
じゃあその健康のためにサッカーを好きにさせるっていうのは手段の目的化になり得るのではないかね。と。
サッカー好きになりなさい!でストレス与えたらもう意味わからんて。
やっぱり押し付けることで“好きになる、楽しむ“の邪魔したらダメなんですよ。

じゃあさ、周囲は何をやったら好き楽しいの邪魔になるの? 何をするとつまらなくなるの? それを考えてみようよ!
ってのがこの記事の本題だったりするわけです。
長い前振りでした。
ここまで読んでくれた人は物好きですね。
ここから始まる本題もついでに読んじゃいますか。
長いです。


何が“好き楽しいの邪魔“になるかを考える時、基本的には子供達が熱中しているテレビゲーム(欧米だとビデオゲームって言う?)との違いを考えるとわかりやすいです。
テレビゲームは“好きにさせよう、楽しませよう“と周囲が働きかけなくても、子供達は“好き“であり“楽しい“でしょ。
・ゲームそのものが楽しませるものになっていて
・周囲がそれを邪魔していない
っていう構図が最もわかりやすいものだと思っております。
テレビゲームに馴染みがない人はスマホゲームで考えてくだせぇ。
それも馴染みが無い人はボードゲームとかなんかそういうので。
ゲームは何にもやらん!って人は、なんでこの記事読んでるねん、です。


“好きにさせる“で、まず一番よく聞くのは「褒める」って行為だとは思いますが、これは邪魔になるんですよね。
「好きにさせるために褒める」
うるせーよ!です。
対象の行動をコントロールするために使う「褒める」。
その下心は相手に伝わってますよ。
その相手からしたら、「褒められてるからやっている」って思われたくないから、やりたくなくなりますよね。
まあそんなもんです。

そんな下心が無いとしてもです。
なぜテレビゲームは褒めなくても好きでいてくれるのか。
それはゲーム内の結果が勝手に褒めてくれるから。ですねきっと。
褒めるというか自分の行為を認めてくれるんですよ。
結果こそが不純物の無いフィードバックをしてくれるとも言えるでしょうか。

「褒める」っていう行為は一種の報酬だと思ってますが、「元々自分が好きでやっていたものを他者からの報酬で評価されるようになるとその報酬が無くなった時にやる気が無くなる」っていう行動経済学でいうアンダーマイニング効果に該当しちゃうんです。
褒めるっていう手段を使うと。
悪手ですね。

ゲーム内の結果が勝手に褒めてくれる、結果が行為を認めてくれる、だとそうはならないんですね。
それは内発的動機になるから。
自分の行動の結果が“周囲からの評価“ではなく“ただの事実“として返ってくるとでも言いますか。
ただの事実だから自分の解釈で捉えられるってのが大きいんですかね。
その良し悪しを決めるのは自分って感じですか。
詳しいメカニズムはわからないですが。
ゲームの結果でゲームを嫌いになることってあんまりないですよね。
周囲の働きかけによってではなく、自分の意思で選択していると思えることが何より大事なのかもしれません。

褒めるに近いところで「期待する」も同じようなものですね。
“周囲の評価“を基準にプレーをし始めると、もうなんでもつまらなくなるんです。
周囲に合わせ始めることが終わりの始まりです。

褒めるを否定する系を書くと必ず現れるのが、「じゃあ褒めるは悪いってことですね。褒めない方が良いんですね。」と1か0かの二元論で捉えるやつだけど、まあそういう単純な捉え方しかできない人は褒めるを使わない方が良いです。
マジで。
「すごっ」みたいな“感想“は良いけど、「すごいね」みたいな“評価”は良くない。
この違いがわからない人には、褒めるの利用を推奨しません。
「結果じゃなくて過程を褒めればいいんですよね!」っていう人にも利用を推奨しません。
それもそこそこ大事ですが、重要なのはそれじゃないです。


「怒る/叱る」は言うまでもなく、ですかね。
そういうのも含めて「罰を与える」って行為は好き楽しいの邪魔でしかないですね。
なんかやる気を出させるためにそれをするとかって言ってる人がたまにいますけど、じゃあお前は罰を与えられたらやる気になるのか?って話でね。
一部の性癖ではあり得るんだろうけど、該当することはあんまりないでしょ。
テレビゲームで周囲に怒られてやる気になった人っているん?
罰で人を動かそうとする場合、それをされてる方は被害を受けないためにやるわけで、その罰がなくなった瞬間もうやらないよね。
最初は好きでやり始めたとしても、罰を与えられる環境で過ごせばその辺の価値観は変わってきますね。

ただこれもね、怒るという行為そのものがつまらなくさせることではないわけで。
誰が何に対してどういう時に怒っているか、がポイントです。
例えば同等の立場のプレーヤー同士が熱くなってお互いに怒っているのはゲームとしての楽しさを失わせることにはならないでしょ?
あと大人が子供に「人として」を説くときに怒る瞬間があっても、それはゲームへの影響とは別になります。
とはいえその環境に居づらくしてしまうようなものだとゲームの楽しさに影響しますけど。
ゲームをつまらなくさせる罰としては、だいたいの場合はプレーやプレー結果について罰が与えられる時だと思います。
罰を与えられた方は「誰のためにやってるんだろう」と思うこと間違いなし。
ゲームはプレーヤー自身が楽しむためにやるものです。
人にやらされてたら楽しくないですね。

「怒らないとやらないじゃん!」っていう人には「じゃあやらなくていいんだよ笑」って返します。
そんなあなたを怒ったら今から人権を尊重した人との接し方を学べますか? やる気にはならないですよね。
相当な罰で危機感を煽れば嫌でもやるかもですが。
怒るってのはそういうものです。


「教える」も邪魔になる行為ですよね。
これ書くと「出たー」って拒絶反応示す人もいそうですけど、実際にそうですからね。
これもまた「じゃあ教えないんですね」って捉え方のやつには「うん、あなたは教えない方が良いでしょう」と返します。

「教える」がなぜ“好き”の邪魔になるのか。
多くの場合が押し付けだからです。
「教えて“あげる“」の精神で行われます。
テレビゲームをやってる最中に横からメチャクチャ教えられたらどうでしょう?
うるせーよ!ですよね。
絶対つまらなくなります。
ゲームのフィードバックを受けて自分で改善を試みてまたゲームに返す。
そんなサイクルに夢中になっているのに、横から反応を強制される雑音がひっきりなしに入ってきたら集中は間違いなく乱れます。
一度途切れた集中力をとり戻すまで最大25分かかる、みたいな話もありますね。
途切れることのない教える声によって、一度も集中状態に入れないこともあるかもですね。
なんだかなぁ〜です。

じゃあ教えることは“好きになる“にとって必ずしもよくないことなのか?
というとそうではないですね。
やっぱりテレビゲームで考えます。

テレビゲームをやってて教えてほしい時ってありますよね。
・行き詰まった時
・より良い方法があるか知りたい時
・損をしたくない時
・面白そうなやり方を目にした時
とかでしょうか。
それらはどんなタイミンングで教えてほしいですかね?
・プレー中?
・プレーの区切りがいい時?
・他のことしてる時?
・1週間後?
聞く耳を持つのはいつでしょう。
現代だとググるタイミングが教えてほしいタイミングっぽいですね。
じゃあ教えてほしくない時は?
とか考えてみると面白いです。
教えてほしいと思っていない時に教わるのが一番鬱陶しいです。

教える内容も大事ですね。
基本的には自分で選択することや自分で生み出すことが楽しいわけです。
誰かにやらされるのは楽しくないんです。
だから全部を伝えられたら冷めます。
だってそうでしょ。
やることが決まっていることをなぞるのは、ただこなすだけの作業です。
クソつまらんです。
しかも全部教わってたら長いし。ダルい。短めにおなしゃす。

「教えなきゃ出来ないじゃん!」って人へ。
だから内容が大事って言ってんだろこのバカチンが。
自分で選択創造する楽しみを邪魔しない範囲を教えるんだよ。


自分で選択創造することが楽しいわけなので。
最近流行りの教える側が「質問で考えさせる」なんてものも実はやり方によってはつまらなくさせるものなんです。
教える側が考えている正解を当てるゲームは、もうつまらなくさせる筆頭です。
正解を当てるゲーム単体としては面白いですが、「その正解通りにプレーしなきゃいけない」ってなった途端に本編のゲームが萎えます。
実質やることを決められたようなものです。
まあ「考え“させよう“」という上目線から放たれる言葉が、受け手にとって心地よいわけないですね。

「じゃあ質問するのもダメなの?」とかそういうのはもういいですね。
ここまで読んでいただければお分かりのように、それそのものが悪いってことはないです。
一番良いのはおそらく“相談“になるような質問でしょうか。
「ここが今チームとして困ってるんだけどなんかアイデアある?」のような言い方になるのでしょうか。
この辺は文章だけだと表現が難しいですが、上目線からの正解探しではなく対等な立場での相談として質問できたら受け手は自分で選択創造している楽しみを持てている状態になれると思います。
テレビゲームでも隣で一緒にプレーしている友達に「ねえ、ここってどうする?」って質問されたらノリノリで答えるもんね。これが相談。
まあ言い換えると、そうなるような質問が生まれない状況であるなら質問はいらないんですよきっと。
教えるタイミングってのと同じです。


つまらなくする、の代表格である「指示」を忘れてました。
やることを指定して自分で選択創造する権利を剥奪してただこなすだけの作業に変化させ、指示を実行できなければ自動的に劣の評価を抱かせる、そんな極悪非道な行為。
ここまでの内容を色々詰めたような行為だ。
テレビゲームで考えたらもうお分かりですね。
ゲームの最中に隣から「ああしろこうしろ」言われたら誰だって嫌になります。
今からやろうと思ってたのに!ってことを先に言われるのは心が煮え繰り返ってやる気ゼロになります。
「その指示の後にそれをやったらお前の手柄みたいになるじゃねぇか!」ってね。

とはいえこれも全部の指示が悪いわけではないですからね。
どういう指示が良いのか、考えられない人は大人しくプレー中は黙っててください。
バカと思ってる人に指示されることほどイラつくものはないですよね。


あとは何があるかな。

「自分ならでは」は楽しいです。
これを逆に思わせる行為はつまらなくさせる行為です。
何がありますかね。
全員に同じプレー/価値観を求める、あなたの役割は誰がやっても良いと伝える、誰かと比べる、とかでしょうか。

「誰かの役にたつ」は楽しいです。
じゃあ逆の行為は?
ダメ出しばかりする、邪魔そうに扱う、居なくても大丈夫だと思わせる、とかですかね。
書いてて悲しくなる。

ちょっと考えるの疲れてきたからこの辺で。



こうやって書いてみると、ゲームをつまらなくする行為ってのはかなり日常的に溢れかえっているのだと思います。
おそらく“好きにさせる楽しませる“の文脈でそれらの行為をやっていることがかなりあるはず。
それが結果的に“つまらなくさせている“ということに無自覚な状態で。

長々書いてきたけど、まとめれば
・自分で選択創造することを邪魔しない
・周囲の評価(価値観)を押し付けない
・関与は最小限にする
の3点を守った行為ができるかどうかだけっぽいですね。
でもそれを自覚してコントロールすることが難しいのが我々人間ですね。
だから3点が難しいなら
・テレビゲームのプレーヤーにやらないことはやらない
の1点だけをとりあえず意識すると効果があるのかも知れません。
私も気をつけたいところです。
とりあえず、「好きにさせる」とか「楽しませる」とか言うことはやめていきたいと思います。

ちなみにこれ、勉強にも置き換えられることだらけです。
勉強というか学ぶことは本来誰しもが好きなはずなのに、いつしか嫌いにさせられちゃうんですからね。
嫌いになった経緯として、この記事で言ったようなことを周囲が行なっている可能性大です。


終わり

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