人の頭が「まとめサイト」になる

山手線内まで働きに出ていたころ以来、約10年わたしはほぼネットニュースを時事問題収集に活用していた。最近はぼちぼちテレビに戻そうかと思う。もちろん新聞購読は続ける。

テレビとネットの報道内容に差異があるというよりは、映像とネット媒体では、同じ内容が人間と報せの向き合いかたに大きな差異を生むようにできていると感じる。その二択で言うならば、テレビのほうがまだマシかもしれない。ネットニュースをこのまま見続けていたら、わたしの頭もまたネットのように知識だけ(果たしてそれが知識と呼べるかも疑わしいが)を収集する「まとめサイト」状態になってしまう。ひとつのことについて感情や心、肉体すべてを使って考えることを放棄する、収納棚だけのまとめ脳である。

ひとつのことをじっくり深めて感情で味わうことが、このようなときこそ大切だと思うのだけれど、ざっくばらんに、でも操作された興味のあることだけ収集していくのは、ニュースというまんべんない箱があるとしたら、その底の四隅の一点ばかり見続けることにしかならない。
わたしの知る限り、ネットニュースを頼りに生きてその報道生活に幸せそうな人をまず見たことがない。テレビなら「あっそ」と言ってチャンネルを替えるくだらないニュースも、ネットでは目の前10センチのスマホで近距離で見てしまう。報せと距離が近いことはそれだけでおそろしいことなのだ。テレビと人間の距離は近くて数メートルだから、情報と人間との距離感も最低それくらいはとれるのだろうが、スマホだと魂と呼べる領域に土足で踏み込まれるほどの近さでくだらぬ情報がばんばん飛び込むのだから、人はそれに耐えてなどいけないと思う。脚をがたがた震わせて必死で踏ん張っているだけだ。

そういう人同士が会話をしたら、やはりどこまでも、まとめサイトとまとめサイトが話しているようで、本当にその人の練られた品性、意見、実感とも解らないような放言が右へ左へ流れていく。会話にたち現れるあわいのようなものもなく、まるでただの空洞だ。虚無的な筒。多面的な視野を得る、ということに万一ネットが貢献していたとしても、今となっては、多面性だけではなく自分の中の本当に生まれてくる声、深まった声を聞くことこそが大切なのではないだろうか。
極端なことを言えば、テクノロジーのテキストなどここ十年ほどのことしか運べない。外を吹く風は一万年前と同じだから一万年分の情報を全身に含ませる。テレビの良さをあえてあげるなら、そこに人間の顔や身体といった表情、身体性が媒介しているということ。音楽なんかも大袈裟で不安を煽るものではあるにせよ、無音の部屋でテキストを読み込む空疎な思念を取り入れるだけのネットニュースよりはマシかもしれない。

わからないものは、わからないままでいい。わかったと思ってしまうと、もうそのことは二度とわかるチャンスを失う。わからない、という状態のまま、心のどこかに収めることで、心のなか自体にそういう文化が生まれそれを埋める物語が生まれる。心は生き物だから、動いて生きているうちにわからないものがいつかわかるように、時間をかけて、知識を知恵に高めてくれる。
わからない、と口をつぐんで考えている(何かが産まれるのを待っている)状態でいる人がわたしは好きだ。まとめサイト読み上げ状態を誇示するよりは、よほど人として品性があるし、人の性質としてその程度で良いのだろう。

考える、ということは味わう、ということに等しい動詞で、右から左から引き出しを開けてその引き出しが多いことを競うためにある品詞ではない。それはときに人間同士の共有を越える。この世界の神のまとう領域も含めて知を共有するということが、本当に報せを受けとるということだろう。

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