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どんぐりとまつぼっくり

デスクの正面の本立てに置いている、すっかり干上がったように乾燥したまつぼっくり。それと、すでに先端から細いヒビが入ったどんぐり。どんなにうなだれても書くモチベーションを与えてくれるのは、いつもこの2個の古びた木の実だ。

まつぼっくりもどんぐりも、世田谷区にある日本最古クラスの精神病院である松沢病院の資料館近くで拾った。50年間看護人をやり、引退した案内人のおじいさまと2人ぶらぶら新館に戻ってくるとき、患者さんが大正時代作業療法で作った巨大な将軍池の縁で、枯葉や枝の積もる足元にあったどんぐりとまつぼっくりをひとつずつ拾った。

私が書いているのは「祈り」の代替行為ような気がする。今でこそこのようにインターネットでマスの人に向けて発信ができる時代だけれど、ハンセン病や結核や精神疾患が「病み棄て」と言われて平然と国策で差別や隔離が行われていたころ、彼ら彼女らの脳膜を打ち破るほどの叫びはコロニーの中だけで雲散霧消され聞く耳ひとつ持たれなかった。
恐ろしいのは、私が生まれてからずっと社会で生きられているのは、ただこの時代に生まれたという運の良さがあったということだけだ。もしも100年前に生まれていたら私だって思春期からコロニーの中にきっと一生閉じ込められて、社会の中で「いないもの」として扱われ、不当に暴力を振られ、檻のようなものの中で監置されていただろう。生まれた場所も日本ではなく第二次大戦中ドイツであれば、真っ先に収容所でゴキブリ同様抹殺されただろうし、中世ヨーロッパに生まれたら魔女扱いされ、恩情もなく町の中心ではり付けにされ公開で火炙りにされていたかもしれない。

そういった力を奪われ人間扱いされず亡くなるしかなかった人たちの声を、魂を、祈りをどこかに送り届けたい。それが私の書くということの唯一のモチベーションだ。拾ってから半年以上経過したまつぼっくりは、天を向いている。先端が乾燥でよれ枝垂れ柳のようになっているけれどそれでも未だ天を向き踏ん張るように鎮座している。まつぼっくりの足元にいるどんぐりは楕円で立つことはできないが、横たわりながら実の先端を矢印のようにして、日によって気まぐれに違う方向を指している。耳をすませばこの二つの熟れた実から、肋骨にどくどくと静寂が明確な音を携えて聞こえてくる。歓声、悲鳴、うめき、断末魔の叫び。それから無念の結集といったものも感覚器官を震わせ貫通するように聞こえる。我慢、沈黙、終わりのない孤独、断崖絶壁の死の淵で一歩前に足を進めるか戻るかためらっているときの心髄を圧迫しきった嘆き。それらの耳鳴りがするほどのおぞましい沈黙を私は吐き捨てて生きることはできない。彼らの代わりに生きなければならない。彼らの代わりに祈らなければならない。

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