◆2 減っては増えて
「おはよう」
「行ってきます」
「ただいま」
「おやすみ」
一人暮らしをしていると、こんな当たり前のあいさつが、すごく恋しくなったりする。
金魚を飼うことにしたのは、そんな理由からだったのかも。
本当は犬や猫だとうれしかったんだけど、今の私にとってそれらの命は大きすぎるし。
金魚の命が軽いって意味じゃなく、今の自分には「自分を認識しているのかいないのかわからない」くらいな距離感の仲間が必要なんだと思った。
一匹だとかわいそうな気がして、でも三匹だと均等に愛を注げない気もしたから、赤と黒を一匹ずつ。
ゆらゆらと泳ぐ姿を見て、届いているのかいないのかもわからずに声をかける。
「おはよう」
「行ってきます」
「ただいま」
「おやすみ」
厳密に言えば「行ってきます」と「おやすみ」は忘れがちなんだけど、やっぱり家に自分以外の生命がいるって安心する。
毎朝餌をあげているせいか、最近は「おはよう」と水槽に近づくと、二匹ともこちらに寄ってくるようになった。
朝の会話のなかに、「ごはんにしようか」というバリエーションが増えた。
こうやって、毎日必ず一回は発する言葉の数が増えていくのかな。
子供の頃、家族と過ごしていた日々の言葉、恋人がいた頃の言葉も。
そんな”毎日の言葉”は増えるだけじゃなく、離れたら減って、そしてこうやって、思いがけずに取り戻したりする。
相手が金魚であろうと、言葉を取り戻すっていうのは何だかうれしい。
そして最近、新しく増えた言葉「いらっしゃいませ」。
小さな料理屋をはじめてからというもの、もしかしたら毎日のなかでいちばん発する回数が多いかもしれない。
23時、連日の雨で湿気ってしまった店の引き戸がガラガラと音をたてる。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
例のお姉さんだった。
一人飲みでやってきて、最後にラムネを注文して帰っていった人だ。
「あの、”金魚”って飲み方、知ってます?」
カウンターに腰を下ろしてお品書きに手を伸ばした彼女に、唐突に声をかけてしまった。
「へ?」
「焼酎お嫌いじゃなければ、ぜひ」
金魚は、焼酎に大葉と赤唐辛子を入れ、お湯で割る飲み方のことだ。
見た目が水槽のなかの赤い金魚そっくりだから、そんな粋な名前で呼ばれているらしい。
ちょっと贅沢したい日、ひとりで一杯やるのにぴったりなんだけど、今日はこのお姉さんにごちそうしたくなったのだ。
「あの、私ひとみっていいます」
その人は、お湯割りの焼酎の中に沈んだ唐辛子を泳がせるように、くるくるとグラスを回しながら言った。
「ひとみさん」
毎日じゃなくても、週に一度は発する言葉になるといいな。
なんだか今日はとても、静かですてきな夜になりそうだ。
ひとつ前のお話たちはこちら
◆1 小さな反抗心
◇1 「ラムネ、入ってます。」
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