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文章と、茶道の神さまのはなし

ずっと、特別な人になりたかった。わたしがわたしであるためには、かけ算をしなくちゃ。と、たしか14歳のときに、問題児で荒れるど田舎の教室、お昼休み後の眠い5時間目にじんわり考えた。

みんなきらいで、みんな好きだったから、認めて欲しかった。わたしが、わたしであることを。
わたしじゃなきゃできないことを必死で探した。

自然に囲まれた過疎地域で生まれ
日光という歴史ある場所のそばで育ち
こけしみたいなTHE日本人な、好きじゃない顔
幸い、お母さんがお茶をやってる
そして、なんか好き。
→日本の文化を発信する人になろう

はじめはこんなもんだった。
そのまんま、紆余曲折ありつつも、いまのいままで14年も生きてることになる。


お茶は、小さい頃からわたしのそばにあったもの。

お母さんが何やらがんばってる趣味?ライフワーク?といった感じで、たまにお稽古に連れて行ってもらったり、お菓子とお茶をいただいたりして「なんか楽しい場所」「日本っぽい好きな感じ」って思っていた。


16歳のとき、本格的にお茶を習い始めた。

週末、部活で汗だくになった後、制服のまま先生のお宅に行って、お稽古をつけてもらう。
スカートが短くて注意されたりもしつつ、何もわからないながらも、これまでにない神経と体力と感性と、あといろいろ、なんだか言葉で表せないものが研ぎ澄まされていく時間が好きだった。涙が出るほど、美しい文化だと思った。

大学生になって、東京に行くことになっても、なんでかお茶はやめなかった。

そもそも、道のつくお稽古には「やめる」という概念がないことも知った。
だけど、「お休み」している人は周りにたくさんいたので、その選択もきっとあったんだろうけどな。

お茶を習うことはそんなにラクではなかったけど、「やめることは絶対にしない」とだけ決めていた。

どれだけ厳しく怒られても、お稽古場で大号泣しても、「今日は帰りなさい」ってお稽古をつけてもらえなくても、さぼることなく、馬鹿みたいに毎回2.3時間かけて東京から宇都宮へ通う。「やめない」って決めたから。

そしてこれは余談だけど、「お茶をやってる子は地味で大人しい」なんて同世代からの固定観念を払拭したくて、全力で"大学生"をした。
東京の私大、英文学科、テニスサークルの副部長、金髪ショート。カラコンもマツエクもヒョウ柄のミニスカートも、お茶と同じくらい、わたしがわたしであるために必要なものだったと思う。

お稽古の日の朝5時までカラオケオールして、鏡月なんてもう二度と見たくないと思いながらも、数時間後には点前座で抹茶を点ててる21歳。変な子だったろうけど、わたしにはすべてが意味のあることだった。

22歳。ライターになるという夢がかなった。

「何を専門にしたいの?」と大先輩たちに聞かれては、「日本文化です」とだけ曖昧に答えて、「考えが浅い」とか「思ってるなら書け」とか言われてちょっと弱気になった。
でも、冒頭にお伝えした通りわたしは何だかんだ中学生のときに掲げたまんま、弱々しく同じ夢を見ていた。

この国のこの文化は涙が出るほど美しくて、だけど伝えられる人になるためには時間がかかりそうだった。ちょろちょろとブログとかインスタとかはじめてみるけど、自信はなかった。周りでどんどん「◯◯ライター」とか「◯◯エッセイスト」って有名になっていく同い年の人たちを見て、「負けてる」って思い続けながら、日々、お茶に向かう。

27歳。「"お休み"しようかな」って、思ってしまった。

ここでいうお休みは、無期限活動停止みたいなもので、いろんなことが重なって疲れてしまったし、仕事も軌道に乗ってきて、「お茶じゃなくてもいいんじゃないか」って思ってしまった。「お茶をやってる人」と「文章書いてる人」 は一生捨てない二軸だったはずなのに、いっこめの方は肩書きから外そうと思ってしまった。


でも、まるで神様が「絶対にやめるな」って言ってるみたいに、不思議なことが次々に起きた。

わたしがわたしであるために、と思って始めたお茶は、だれかの何かのためにもなっていたのかもしれない。気づかぬうちに。

だからやっぱりお茶が好き。とても。

「お茶をやっている私」の周りにいてくれる人たちのことが大好きだから、気づかせてもらえたことでした。

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