発露と音楽と祈り

 ライブ前にX(Twitter)でも話したことだが、僕は今回のライブをプレーンな感覚で視聴する観測者だった。
 今までの僕が観測してきた幸祜は、前回のミニライブや他アーティストのライブゲストぐらいなもので、あとは極稀に生配信とその切り抜きを見る程度だった。知らない曲ばかりというわけでもないけれど、歌えるくらい聴いた曲というのも特別なく。「これから好きになるため」とでも言えばいいのか、とにかくこれまでのライブとはまた異なる形で楽しみにしていた。
 結果から言えば、僕が観た『PLAYERⅡ』というワンマンライブは、「音楽を観た」という、日本語としては些か不思議な体験だった。

 相変わらず成長も進化もせず、僕という人間は、「僕なんかが幸祜の想いを受け取っていいのか」なんて考えていた。そんな不安は杞憂になって、いとも簡単に吹き飛ばされた。
 音楽とは不思議なもので、奏でる側も聴く側も幸せになれる魔力がある。楽しませる魅力がある。杞憂半分の僕が、ほとんど初見の歌を聴いて、他の観測者と共に楽しめたのだ。幸祜の歌声は、その幅広い表現力の奥……彼女の言う骨の部分に、音楽に対する重い想いがあった。
 勿論、その重みは決して悪性のものではなく。過去の苦悩や音楽への熱量が質量を持って歌に昇華された、価値ある心地の良いものだ。
 努力している人は輝いて見えるし、楽しんでいる人は煌めいて見える。荒廃した街中でも、あるいは落ち着いた夜の街中でも、彼女が変わらず綺麗に見えていたのは、きっとそういうことなのだろう。
 幸祜を好きになるには、二時間半という短い時間は十分すぎた。

「僕が受け取っていいのか」の最たる例として、幸祜自身の話があった。彼女のことを知るいい時間だったし、なにより、曝け出す勇気と信頼を受け止められるいい機会だった。
 競争世界には身に覚えがある。媒体は違えど、僕も創作関係の専門学校に在籍していたし、やっぱりそこも結果として明確に上下や優劣ができる環境だった。僕自身が関与することこそなかったけれど、人間の良くない部分が見える出来事だってあった。
 幸祜が話してくれた過去の苦悩や葛藤に共感できるとは言えない。けれど、理解を示して受け止めることはできる。そして、それが僕のするべきことだと考えている。「話してくれてありがとう」と言うことが、観測者のできる精一杯の応援なのだろうと。
 人間は環境に大きく左右される。表現を始めるのもやめるのも環境の影響であることが多いし、少なくとも僕はそれを実感していた。
 幸祜という在り方が、そして僕たち観測者の応援と感謝が、"彼女"という一人の人間を少しでも幸せにできたらな、なんて。楽しそうに歌って踊り、ギャップのあるMCをする彼女を観測しながら、そんなことを考えていた。

 ……ここまで、少しとはいえ散々語っておいてなんだけれど、やはり作品は作品単体で完結したパッケージであり、音楽はそれひとつあれば他に言葉もいらないように思う。
 僕は幸祜の歌を聴いた。彼女の想いの一部を知った。彼女という、音楽が好きな人間と、それを支える大勢のクリエイターを観測した。それだけなのだ。それだけで僕は十分に、幸せなのだ。
 そして観測者としての僕がお返しできるのは、「楽しかった、好きになった」という単純で純粋な感情と、「ありがとう」という感謝ぐらいだろう。
 あるいは、大好きな彼女と今後の音楽活動に向けて、最大限の笑顔と愛情で「幸あれ」と祈ることくらいだろうか。

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