僕は観測者であるという話

 僕はクリエイターである。これは誰に否定される筋合いもなく……強いて言えば唯一自己否定だけが許されるくらいの、アイデンティティの根深い部分にある要素だ。
 とはいえ、やっぱり自己否定から湧き上がる、「自分にはクリエイターを名乗る資格がないかもしれない」なんて考えは、髪を切るくらいの頻度で思考の海に浮かんでくる。……最近は髪を伸ばしていたからしばらく切っていなかったとかいう、くだらない例外の話は置いておいて。

 自己否定から始まるくせに、自己肯定的な「創りたいものがあって創りたい意志があるのだから、僕はクリエイターである」という結論に至るのが毎度のことなのだけれど、ある時僕は否定を否定せずに考えたことがある。僕はクリエイターでなければ、一体何者なのかと。
 きっかけは、仕事関係の人に言われた「君はプレイヤーじゃない」という言葉だった。意味としては単純なもので、「君は現地や最前線で動くより、一歩下がったところから全体を管理する仕事の方が向いている」という、僕自身も漠然と自覚していた仕事上のアドバイスだ。
 その時の自分は、二十余年の人生の中でも結構メンタルの調子が悪い時期だったので、"プレイヤー"の部分に"クリエイター"を代入して考えた。「自身がクリエイターであるか否かはともかく、やっぱり向き不向きで言えば、僕は創作に向いていない人種なのではないか」なんていう風に。
 そして、僕は間違いなく創作をするのに向いていない。これは5年弱小説を書き続けてきて思うことだ。個性的な才能があるわけでも絶対的な努力量があるわけでもなく、周囲やネット上のクリエイターたちと比較して「劣っている」という、創作においては精神の無駄な摩耗と言って差し支えないような認識を覚えてしまう精神性は、あまりよろしくない。
 とはいえ、だからと言って筆を折るわけじゃない。というか折れるわけがない。僕にとってそれは、縄で作った輪に首を通す行為と同義なのだから。それじゃあまるで中学時代だ。
 だから考えた。多くない知識が散らばった少ない脳で考えた。思考を放棄することは、自ら動く死体になるということだ。それはある意味で自死以上に悲しい選択だと、少なくとも僕は思っている。

 余談を挟むタイミングじゃないのだろうけれど、余談として。僕は、自分がプレイヤー向きでないように、主人公というような人間でもないなと感じている。
「君は君という物語の主人公」みたいな言葉がある。考え方としては概ね共感するものの、だとしたら僕という物語はとんでもない駄作だなとも思う。
 消極的で自虐的、面白いエピソードなんて大してないし、実際エピソードトークを求められると困ってしまう。自分の人生を淡々と語るだけなら寧ろ好きなくらいだけど、そこに物語としての価値があるとは保証できない。
 第一、主人公として魅力的じゃないのだ。僕が作者だったら確実に白紙に戻して作り直す。才能もなければ努力もしない、個性的と呼ぶには些か魅力に欠ける人間性。でも作り直しなんてできるわけないから、その場その場の思い付きで上手いこと価値を生み出していくしかないのだ。というか、多分それが人生っていうものなんだろう。
 そう。僕は主人公にはなれないかもしれないけれど、作者なのだと思えば腑に落ちるし、実際そう自覚すると生きやすくなった。結局のところ、物語を創るのは主人公じゃなくて作者なのだ。主人公を演じるのではなく、作者として物語を創る行為であれば、僕は5年近くも懲りずにやってきている。

 否定から生み出される新しいアイデンティティがあった。少ない脳で考えた結果だ。僕は主人公じゃなくて作者であり、そして、プレイヤーじゃないのなら。僕は、コンダクターなのだ。
 コンダクター。演奏者ではなく、指揮者。
 もちろん、今の僕にタクトを持つ資格はないと思う。でもそれは、あくまでも現状の自分を正しく評価しただけで、目指す理想像としてはこの上ない納得感があった。
 元々、僕の人生設計というか、クリエイターとしての指標として、一つの世界観を複数の媒体で表現するという設計図がある。小説で完結せず、音楽やアニメーションで多角的に世界を描き、あるいはゲームなどで消費者が直接世界に参加する。……既視感を覚えた人がいるなら、多分それは僕と同じものを想像しているだろう。
 いつからこの目標を掲げたかは覚えていない。それこそ、どこかの笛吹き男に唆されたのかもしれないし、自分の目指す形と似た色をあの世界に見出したからこそ、ここまで熱狂的になっているのかもしれない。
 であるならば。であるからこそ。僕は僕が表現者として創作を続ける理由を、絶対に見つける必要があった。生み出す必要があった。
 これはアイデンティティじゃなくて、レゾンデートルだ。僕らしらなんていう個性や同一性じゃなく、僕という存在そのものの価値や意義。……昔の自分と違って、今の僕には希死念慮の裏に明確な生への渇望があるのだ。まだ何も創っていないのに、道を見失って死ぬわけにはいかない。

 すごくすごく、単純な話。頭の悪い僕が考えられる、最良とは言えなくても、きっと最善ではあるであろう、否定形から生まれる答え。
 僕はクリエイターじゃない。
 僕は表現者じゃない。
 創作がないと息もできない人間で、創作のために生きているような人間のつもりだけれど、それはあくまでも人間性の一側面であり、僕を構成する一要素でしかない。もっと根本の、核の部分。創作が血液だとするなら、心臓みたいな部分の話。臓にある心の形。
 僕は、”観測者”である。
 このダブルクォーテーションが、単なる強調ではなく、正しく引用符としての意味を持っていることは、今更説明するまでもないだろう。引用元が何であるかは、読者の方々とも認識を共有できていると思う。
 とはいえ、単に大好きなものから言葉を借りたというわけではない。僕が愛する”観測者”としての在り方とは別に、僕が創作を始めるよりもさらに前の根源の部分には、そういう人間性を持っていたのだ。

 昔から……それこそ、物語というものに触れ始めた頃から、僕は「もしも話」を考えることが好きだった。(流石に、海になったらなんてことは考えてなかったと思う。僕の腹の中は何色なんだろう)
 小説でもアニメでもゲームでも、それこそ音楽であっても。僕は物語のIFを考えることが好きだった。報われない誰かがいたら、機械仕掛けのご都合主義な舞台装置でハッピーエンドを捏造し、報われない何者かがいたら、これは描かれなかっただけなのだと幸福を贋造する。そんな可能性を想像して、そんな物語を創造していた。
 思えば、僕は夢想家的な一面があった。何かと突拍子もない想像する癖があった。想像するのが好きなのなら、創造するのだって好きになるに決まっている。僕は単純かつ愚かな人間なので、同音異義語同士を結び付けて、本来はありもしない関係性を生み出してしまうのだ。
 そして。例外なく、想像と創造の前段階には観測がある。生憎と僕は、無から有を創り出す才能を持ち合わせていないので、――だからこそ、クリエイターには向いていないと自己嫌悪に浸るのだけれど――前提というか下地というか根本の部分に、他者が生み出した創作物への観測行為があった。

 自己肯定感の低さを差し引いても、僕の作品は「あぁ、あの作品や作者に影響を受けているんだな」と自分ですら感じる部分が多い。色々なジャンルから自分の好きなものを集めて、継ぎ接ぎだらけの作品を創っている。もしくは、それらを縫い結ぶ糸こそが、数少ない僕の作家性なのかもしれない。
 まぁ、とにかく。自分自身にも否定できない根源の部分、お前は何者かと問われた時の答えは、「僕は観測者である」という言葉に収束する。あるいは終着する。
 僕は表現者である以前に観測者である。創作を愛する感情の内海に、観測を愛する心がある。ありきたりでシンプルな言葉を使うならば、僕が彼女に出逢って”観測者”となったのは、きっとそういう運命なのだ。
 観測者効果によって表れた、僕の人生という名のバグなのかバイアスなのかよく分からない物語は、その名状し難い不可解なシナリオのプロットに、きっと魔法でもかけられているのだろう。それが音楽であったらいいなと、僕はまた希望的な観測をしてみる。

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