ロマンス・デパーチャ

 ある授業課題の一環で、理芽というシンガーについて……正確には、理芽の歌う『ピロウトーク』について書いたことがある。
 その時僕は、彼女の歌声をチョコレートのようだと表現した。諸々の背景や含みのような意味合いを除いても、腑に落ちる表現だと思う。
 甘くて、苦くて、背徳的で、魅惑的。『ピロウトーク』を歌う彼女の声は、間違いなくそういう声なのだと今でも思っている。
 けれど、あくまでもそれは理芽というシンガーの一側面でしかない。三年以上経過した今の彼女は、深く広く変化している。成長と、そしてこれからの進化の可能性を知るのに、『NEUROMANCEⅡ』というライブは、冠したその名の通りのものを見せてくれた。

 僕と理芽は同年代である。認識が正しければ同年齢である。
 そんな彼女が二時間強のライブで観測させてくれたのは、ともすれば比較した自分がとても未熟な存在に思えてしまうほどに、綺麗なものだった。
 経験が見える。努力が伺える。過程にあった葛藤が垣間見える。一人の少女には些か重すぎるんじゃないかと心配になるような、混沌とした感情の重力場が、「好きを表現する」という核に収縮され、歌に昇華されている。
 理芽という人間の人生そのものを見せてもらっているような感覚だ。楽しいも苦しいも酸いも甘いも飲み込まれた、超重力の輝く星。春猿火が「私達の太陽」と表しているのを見て、僕はその通りだとただ黙って共感することしかできなかった。
 ビターな曲が多いものの、不思議なくらいに眩しい彼女のパフォーマンスは、勝手に比較して憂愁してた僕にすら、ありきたりな言葉だけれど「頑張れ」なんて、背中を押してくれたような気がしてくる。
 人間は太陽のエネルギーに随分と依存している。引きこもりがちで夜型の僕ですら、天真爛漫な彼女の熱に生かされている。

 ライブからは少し話が逸れるが、冒頭で取り上げたチョコレートのような歌声について。ライブを観測していて、「これボンボンショコラだな」と感じた。要するにアルコール入りのチョコである。
 人を酔わせるというか、溶かしてしまうような雰囲気がある。心酔という表現が一番それらしいか。人を魅了して惹きつけるような、あるいは引き付けるような……やっぱり、理芽という存在には強力な重力場が存在しているのかもしれない。
 惑星理芽。夜空に浮かぶ月のような、不思議で優しい気配がする。
 
 話をライブに戻して、終盤のMCで本人が語っていた、「好きの多様性」について。好きという感情は、暴走すれば人を傷つける武器になる。
 争いも差別も、この世界から無くなることはないと思う。日本にいてそう思うのだから、アメリカというサラダボウルに留学した理芽は、平和を実現する難しさみたいなものをより理解しているんじゃないかと想像している。
 だからこそ、自分の好きを隠したり曲げたりせずに、好きな世界を拡張していく彼女の姿は、素直に格好良く見えた。嫌いという感情を伝えた人間に感謝して、成長の糧とする生き方に、僕は素直に憧れを抱いた。
 これが間違いなく、好きという感情なのだろう。神椿市一番街や、不可解空間と評された広大かつ美しい世界に立つ彼女が、恋焦がれてしまうほどに尊い存在に思えた。

 昔々の自分は、好きという言葉が苦手だった。稚拙で漠然としている言葉じゃないかと。けれど、彼女たちの音楽に触れて、僕も僕なりに成長して、それが感情を突き詰めた根本にある純粋な言葉なのだと気が付いた。
 好きの表現、好きの拡張。あるは新しい世界と、新しい自分。出発した物語はいずれどこかに到着するわけだけれど、そんなニューロマンスの道程や終着点が、幸福なものであれば。そしてその幸福の一部分でも、僕らに観測させてくれるなら。そんなことを考えて、僕は抱えた感情を飲み込んだ。

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