奇異を擬く

 僕は社会人だ。財布に学生証は入っていないし、カラオケの学生割も適用されない。身分を訪ねられて答えるのは学校名じゃなく会社名や業種職種になるし、制服は今じゃコスプレになってしまう。……いやまぁ、制服は専門学生の時には既に無かったのだけれど。
 社会に出て、大人になることを求められて、やっぱり溜息をついて。過去に置いてきた何かに届かない手を伸ばして、無駄に膨らんで希薄になっただけの自分自身に辟易しながら生きている。

「僕はもっと音楽に救われるべきだ」
 この言葉は、以前の記事でも触れたある人の言葉を、自分なりに咀嚼して嚥下した結果なのだけれど、他人の思想思考の継ぎ接ぎで形成された僕という人間は、案の定この言葉を気に入っている。
 事実として僕は、音楽に救われた。過去を喰らう歌に、海に化ける歌に、人を気取る歌に、社会で溺れかけていた僕は、一人で勝手に救われたのだ。
 そして、そこに救いがあるのなら、同時に痛みがあるべきだと考えるのが、僕らしい人間性というか、ある意味での作家性だった。

 呪いや痛みが好きだ。マゾなのかと聞かれたら、首を横に振る自信こそはないけれど、これは快楽の話じゃなく人間性の話だ。
 普通ではないこと、何かが欠けていること。偏っていること、異常であること。「異常が異常のまま幸せになる」とは、これまたある小説から影響を受けた言葉ではあるが、僕の創作観と人生観の主軸になっている。
 歪んでしまっているくらいの存在の方が、僕は魅力的に感じる。狂ってしまっているくらいの人生の方が、僕は羨ましく思う。決して不幸不憫を肯定するわけではなく、僕はただ純粋に、単純に、ないものねだりをしているに過ぎない。

 僕はもっと創作に呪われるべきだ。
 何も創らないのなら死んでしまえ。創作を、表現をする為に生きると決めたんだろう。惰性と逃避で生きるのなら、今の僕に価値はない。
 痛みを恐れるのなら何にも触れるな。何も見るな。楽して生きていきたいのなら、この世界はあまりにも鮮やかすぎる。
息を吸うように創作物に触れて、息を吐くように創作物を生み出す。それこそが僕の人生の目標であり、枷であり、呪いであるべきなのだ。僕から表現を取り除けば、そこに残るのは二十余年分の空虚な人間なのだから。

 いや、これ以上なく単純に考えよう。至極簡潔な言葉で伝えよう。
 僕はもっと、音楽を好きになるべきだ。創作を愛するべきだ。義務感でも焦燥感でもなく、これは我儘な自己愛だ。僕がいかに捻くれた人間であろうと、幸せになりたいことに変わりはない。
 狂うほどに音楽を愛すればいい。人生が歪むほど創作に依存すればいい。膨らんだ身体に意味を見出したいのなら、海でも異常性でも喰らえばいい。僕が今以上に自由に生きたところで、それを咎められる人はいない。

 八月二十四日を忘れたわけじゃないだろう。前触だって、つい昨日のことみたいだ。あるいは、初めて彼女と出逢った時のことなんて、忘れるわけがない。忘れてやるわけがない。今だって、結局はキーボードを打鍵する手を止めて、彼女たちの新しい挑戦に歓喜していたじゃないか。
 痛みも呪いも原動力だ。偏りは個性になるし、欠損は魅力になる。表現を楽しいと形容することに躊躇いはあっても、表現を好きだと言うことには、何の迷いもないのだから。
 好きなことをしている人間は、努力している人間は、とても綺麗に輝いて見える。それが例え自分自身であったとしても、僕はその輝きが好きだ。

 ……よくない。仮にも対外的に露出する文章だというのに、滅茶苦茶自己完結染みた書き方になってしまった。まぁ、元々そういった意図で始めたことではあるのだけれど。
 これを読んでいる人はある種の類友というべきか、多少なりユニークな方々なのだろうと勝手に失礼な仮定をしているから、多分問題ない。

 さて、雑多に書き殴った文章を強引に纏めようと思う。思えば、最初からこれを書きたかったような気がするし、書き始めはもっと別のことを考えていた気もしてくる。こうして他人に読まれる場所に書くことに意味がある、自分に言い聞かせる宣言――呪いのようなものだから、締め括りにはちょうどいいのかもしれない。
 僕は、不器用で異常な人間擬きになりたい。
 音楽を聴かなければ息苦しくなるような生物になりたい。
 小説を書かなければ腐ってしまうような怪物になりたい。
 創作に触れなければ死んでしまうような何者かになりたい。
 偏っているくらいの方が、狂っているくらいの方が、僕にとっての幸せで、あるいはそれこそが僕を僕たらしめる在り方だ。

 最初は擬きを真似る中途半端な存在だろう。でも、偽物も本物も関係ないことは、継ぎ接ぎだらけの僕自身がよく知っている。そうあろうとすることが大切で、その過渡期が僕を形成する。
 差し当たり、久しぶりにゼロから小説を書こうか。僕が歌わせてあげられないまま月日が経った、あの子を起こすのもありかもしれない。やりたいことが多すぎる。そして時間や体力がやらない言い訳にならないことは、僕が真似ようとしているクリエイターの諸先輩方が証明している。
 
 ……結局自己完結の文字列が生まれてしまった。まぁいいや。
 今更恥だ外聞だと言い始めたら、僕は黒歴史をフラッシュバックさせて首を吊らなくてはいけない。そうむざむざと死んでたまるものか。僕は表現者として醜く生きて、生きてやるのだから。

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