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『なついろサイクル』

 窓を開けると、少しじめっとした夏の空気が入り込んでくる。部屋がわずかに涼しくなったことに安堵しながらも、まだどこか満足しない自分がいた。

「今日の東京は一日快晴、予想最高気温は三四度です。熱中症に注意して……」

 ラジオの音を消して外界に意識を向ければ、熱量を持ってさんさんと降り注ぐ太陽の光に、耳の奥まで届く蝉の声。まさに日本の夏、という雰囲気を全身で感じるが、やはりこれではいけない。このまま部屋に引きこもっていると茹ってしまう。それではエアコンの電源を入れれば済むのか、答えは否。どうせぐうたらして一日を終えてしまうに違いない。

 どうにかして今日を怠惰にならず涼しく過ごす方法はないものかと考えようとしたそのとき、家の前を一台の自転車が走り去っていくのが見えた。

 自転車に乗った体が、夏風を切ってゆく。
 ケータイとイヤホンと財布、最小限の荷物をバッグに放り込み、青い看板に導かれ、目指す先に向かって自転車を走らせる。いつもの街並みを抜けて、緑の中へ飛び込むと、空気の温度がふっと下がった気がした。かいた汗も、風に流されてひいていく。この涼しさに、山の中にあった祖父母の家へ小さい頃遊びに行ったことが思い出される。

 夏休みに祖父母に会うと、きまって一度は山へ散歩に出かけたものだった。背の高い木々に囲まれて、とても涼しかった山の中。たくさんの魚が泳ぐ、澄んだ冷たい川の水。カブトムシはこうすると捕れるぞ、と得意げに話してくれた祖父に、この山菜はこう料理するとおいしいのよ、と笑っていた祖母。小学生時代の夏休みを彩った、懐かしい記憶たちだった。
 母親は、ずっと山を離れて都会に出たがっていたらしく、実際にその通りにして、父親と出会った。そして自分が生まれて、今こうして自転車をこいでいるのだけれど、祖父母の家に帰ったときの母親は、いつもよりも楽しそうだった。たまに帰るとやっぱり安心するのよね、とそのわけを言うのだった。

 祖父母は最近どうしているだろうか、もう高齢であの頃ほど歩くことも難しいだろうけど、元気にしているだろうか、なんて考えを巡らせていると、自転車のペダルがぐっと重くなった。急な坂に差し掛かったらしい。スポーツでつけた体力をもってしても、厳しそうな坂だ。父親は車を運転するたびに、この坂は大変なんだよなあ、燃料もちょっと減りやすいし困ったもんだよ、と笑っていた。

 坂は少しずつ厳しさを増していく。垂れてきた汗で視界がにじむ。予想以上に過酷な道のりに、体はヘトヘト、心も折れそうになってきた。こんなにしんどいならやはり家でぐうたらしていた方がよかっただろうか。だんだんと自転車のスピードが落ちてきて、止まりかけたそのとき、上り坂の終わりが見えた。もう少しの辛抱、とペダルをぐっと踏み込んだ。

「あっ」思わず声が漏れる。
 市境を示す看板に続く下り坂の先に、海があった。この体の渇きを満たすもの。この夏に、何よりも求めていたもの。それが目の前に広がっていた。
胸のときめきを抑え込みながら、あの景色をもっと近くで感じるために、またペダルを踏みだした。

 さわやかな風を感じながら坂を下って、浮ついた気分で自転車をこぎ進める。父親が生まれ育った、隣町の景色だ。厳しくも真剣に自分と向き合ってくれた祖父に、いつも優しく迎え入れてくれた祖母。波の音と潮の香りに満ちたこの町での思い出も、人生の大切な一ページだ。

 見慣れた、だが懐かしい看板が見えてきた。顔なじみのおばさんがやっている店だ。冷房の効いた店の中に入ると、そんな汗だくでどうしたの、とおばさんが驚いたような表情をして迎えてくれた。自転車で来たんです、というと、お父さんといいあんたといい懲りずにやるねえ、とおばさんはあきれたように笑った。

 学生の頃の父親は、学校帰りに毎日のようにこの店に通っていたらしい。夏の日は汗だくのまま自転車でやってきて、やはりおばさんにあきれられながらおやつを買っていっていたという。

 追加のジュースを買って、また来てねえとおばさんに見送られる。店の中は冷房で涼しいはずなのに、心はぽっと温かくなった。不思議なものだ。ここで補給したエネルギーで、また自転車をこぎだしていく。

 日の光がきらめく青い水面が見えたところで、一度自転車を止めた。自分の大好きな海、いつも自分の心を穏やかにしてくれる海。目を閉じて耳をすませると、波の音と鳥の鳴き声が頭いっぱいに広がった。自分は海にいるのだ、とこれ以上になく感じさせてくれる。

 いい風が吹いてきたな、と思ったタイミングで、再びぐっとペダルを踏む。潮風にのって、自転車とともに体がすいすい進んでいく。まるで、自分自身が風になったかのような気分で。

 まだまだ、夏は終わらない。

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