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音と文字のバランス感覚

部屋の芍薬が、突然花びらを落とす。
ごそっと、まるで音がするように一気に落ちてゆく様子に寒気を覚える。

「あぁ、終わるんだ」

不可逆に広がる残骸に成すすべなく、一部始終を看取る。それは一瞬だった。



とある小説家の方に、「あなたの文章はテンポがいい」と、お言葉を頂いたことがある。
きっとそれは書きながら、準備運動さながら頭の中でことばを鳴らしながら書いた文章だと自分では感じている。

「もう既に完成形が見えている」

そんな風に爽快感を感じながら、目に見えるかたちでことばを並べた記事は、「スキ」を多く集めている傾向にある。
調子のいい気配まるごと詰め込んだ記事は、自分でも何回読み返しても読後感が良い。

だけれども、その先生の綴る文章から匂い立つ上品さには程遠い。色とりどりの和三盆のように、丁寧に小さい箱に収まり、箱のそばには香が添えられているような、静けさ、誠実さ、清潔感、余白、そして知性がある。
「文章を読めば、その人となりがわかる」と言われているが、まさにその通りのお人柄のように記憶している。

ここで疑問に思うのが、語調と音感よろしく書き連ねた私の文章は、はたして“創作物”なのだろうか。
noteを始めて一ヶ月ほど経ち、様々なクリエイターさんたちに刺激をいただきながら感じたのは、“表現”することと、“磨き上げられたものを創る”ことは、似ているようで本質的なものはだいぶ異なるのではないかということ。

頭の中に溢れるものが“音”のとき、私は楽器を持ち音を紡ぎ、“ことば”のときは文字を綴る。
が、そこに磨きをかけようとするとき、きっと一度や二度、何かに変換する必要や、踏む工程があるのではないかと、冒頭の芍薬の段落を書きながら感じた。

生き生きと咲き誇っていた芍薬にも、花びらが落ちる時期がある。
普遍的な盛者必衰・栄枯盛衰を、芍薬を拝借して謳ったと解説すればそれまでだが、“創作”とはそのようなことなのではないか。

理屈や理論だけではなく、語調や音感だけではなく、読み手の潜在的に内包する感覚に、意識せずともじわじわと辿り着いてしまうもの……それが“私の目指す創作”なのではないかと、この瞬間に見えてきた。

私の好きな小説家・作家方も、そのような作風の方々が多いように思う。
いつだって静かにふと寄り添い、視野を広げ、たまに一歩先へとリードしてくれる。
その域に、一歩近づけるかどうかは、どうやらそこにある気がしている。

実感としては、早くもセカンドステージへの道が拓けてきたような手応えがあるのだが、ここから先は、茨の道か、底なし沼か、はたまたパラダイスか天国への階段か…。

まだまだ成長し続けますので、皆さまどうか、これからも黄色い声援を、どうぞよろしくお願いいたします。

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