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山本太郎さんの優しい目は、知的障害のある次郎の話に向けられた!

太郎さんを追っかけること11年。初めて一緒に写真を撮ってもらった。いつもは、IQ18の次郎(27歳)が一緒に居るから、次郎と太郎さんのツーショット写真ばかり撮ってきた。次郎がショートステイに行っている今日こそは!!!!と、異様なテンションで臨みすぎて、ぼろ雑巾のようになって笑っている私に、太郎さんの優しい眼差しが嬉しすぎた。

2021.11.17埼玉県浦和市での太郎さんとの公開おしゃべり会。

https://youtu.be/Xb3D4zB8cWE

次郎が居ない時にしかできない話しをしようと、思いの丈を太郎さんにぶつけようと決意して手を挙げた。待ってる間に込み上げるものもあって、太郎さんに指名していただいた時には、切羽詰まったお聞き苦しい話し方になってしまっている。動画23分あたりから36分あたりまで太郎さんとのやりとりがあるので、よかったら観ていただきたい。本当は1分ルールでたくさんの人の意見を聞く場なのに、太郎さんは何度も質問をしてくださって、私に事情を説明する時間をくれた。

太郎さんに私が訴えたのはこうだった。船後靖彦議員、木村英子議員が重度訪問という福祉サービスを利用する時に、制限があることの改善を求めているが、重度の知的障害のある者は、重度訪問すら使えない現実があることだ。

身体障がいのある方々が施設を出て、地域で暮らしてゆくために24時間介助がなければ命にかかわることから、まさに命がけで創ってきた制度と言っていい重度訪問。その重度訪問を2016年に知的障害者も使っていいことにはなったけれど、『知的に最重度であること』 かつ 『強度行動障害があること』という条件が付いているのだ。

この かつ という言葉は該当者を振り落とすために使われる言葉だ。次郎も、知的に最重度であるにもかかわらず、強度行動障害がないことで、重度訪問に該当しないと判断されている。

ほっといても死ぬわけではない(火事や災害があれば死ぬ確率は高いが)次郎たちに24時間介助が必要だとわかってもらうのはむつかしい。『グループホームがあるだろ?!』『なに贅沢なことを言っているのだ!』『わがままだ!』という反応が返ってくる。善意で「すごくいいグループホームがあるよ」というお話しもいただく。本当にありがたくて、私の気持ちは半分、次郎にはグループホームもいいのでは?などと思い始めてもいた。

でもでもでもでもでも、、、、、、私と次郎はどうしてここに居るのだ!?次郎が普通にあたりまえの暮らしを、あたりまえにするために、東京まで出て来たんじゃなかったか?知的障害者の自立を模索している福祉関係の方々にも会い、知り合いも出来た。でも、次郎が今の制度で普通の暮らしをしてゆく方法は見つけられていない。

だから、私は制度を変えたい。次郎たち知的障害のある人が、普通に街で普通に暮らしてゆくための法整備をしたい。差別(区別・排除・制限)を禁止して、普通の暮らしをしていくために足りないことを補うことが福祉なのだと行政に周知したい。

だから、切羽詰まった声で訴えることになってしまった。聞き返すと聞き苦しくて、反省しきりだけれど、もう太郎さんしか聞いてもらえる人は居なくなってしまったのだ。聞いてもらえて本当にありがたかった。もしも、もっと聞いてもらえるのなら、壊れた水道のように止めどなく話し続けることが出来る。

けれど、こういう話は次郎の前ではしたくない。お母さんがすごく困っているとか、それが、自分の所為だとか感じてほしくないからだ。

次郎には、次郎が生まれてきたことでお母さんは幸せで、一緒に居ることが楽しくて、これからもずっと一緒に暮らしていけると思っていてほしい。もうすでに私の日常なんて愚痴まみれになっているけれど、せめて公の場に次郎と一緒に出る時には、楽しい話しをしたい。どんなに次郎が面白いか、どんなに次郎に学ぶことが多いか、どれだけ豊かな時間を次郎にもらったかを。

先日、お風呂介助をしながら、「お母さんもあと30年くらいは頑張ろうかな?」なんて言ったら、次郎が指を大きく広げ5を作ったので「50年?」と聞き返したら、そうそうというようにうなずいた。50年か~?50年後には私は108歳だ。生きていられるだろうか?

障害児のお母さんあるあるなのだけど、障害児のお母さんは早く亡くなることも多い。自分の身体のことは後回しだから、病気が見つかった時には手遅れだったとか、脳溢血で倒れてそのままとか。社会が障がいのある子どもの世話をお母さんに押し付けているから、身体的負担もストレスも半端ない。多くのお母さんたちが寿命を縮めながら子どもの介助をしていると言ってもいい。

私も、特発性アルドステロン症という病気が見つかっていなければ、この病気を原因とする高血圧で脳の血管が切れていてもおかしくなかった。次郎は助けを呼べず、私は死んでしまうことだってあったのだ。たまたま娘に病院に連れていってもらうことが出来て、病気の発見が出来た。今は服薬で血圧のコントロールが出来ているのが、幸運だったとしか言いようがない。

私だって、命がけで訴え出ているのだ。その声を太郎さんが聞き届けてくれたことは、この上なく嬉しいことだった。あんな優しい目で見てくださったら、もう死んでもいい!!いや、死んじゃダメ!!!死んでもいいくらいに嬉しかったから、明日から、もっともっと、次郎たち知的障害のある人たちの為に、頑張ろう!

太郎さんは「長生きがしたい」と言った。政治のことを人に譲って自分の人生を取り戻し生きるためには、長生きするしかないからと。太郎さんは冗談まじりに話されているのに、私は涙がとまらなかった。私も自分の人生を横に置いてでも、知的障害のある人の為にやらなければならないことがある。そして、知的障害のある人の人権が守られ、普通に街で普通の暮らしが出来る社会になった時に、私も自分の人生を取り戻して生きよう。

やはり、108歳まで生きなければならないかもしれない。


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