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偽病六尺 #2 「Glare」

 わが子が巣立っていくのを見届けるというのはこういう感覚なのかしらとひたに思うのであった。ヤマシタトモコ『違国日記』最終十一巻を先程読み終えての現在の心情。田汲朝という少女に対してであるとともに『違国日記』という作品そのものに対してでもある、われとわが手を離れていってしまうものへのさびしさにひしゃげている。恐らくこのままいくと私は今生では子供を持つということは無いだろうから、どこか擬似的に貴重な体験をさせてもらえたような気分でもある。槙生ちゃんは「育ててない」けれど。それで言うなら『よつばと!』と『うさぎドロップ』と『甘々と稲妻』のほうがよっぽど子育ての疑似体験なのだろうし、それらとて現実からは程遠い物だというあれこれは一旦飲み込んで。朝の、夜明けの在り方と行く末に思いを馳せられて本当に幸せだった。

 案の定それはそれは重篤な違国日記ロスに陥っている、と書いてみて今、なんだそれはと思った。そんなまるであの漫画が終わったみたいな、いや終わったんだよな。は? 終わったの? これからあの人達の姿見られないの? どんな風に生きて行ってどんな風に死ぬのか最後まで見届けられないの? 私何か悪い事しましたか? どうしてそんなひどいことするんですか? フィクションと現実を分かつ境界線誰か今すぐ破壊してくれ。もしそれが出来たところであの世界の誰とも私は仲良くなれないだろうが。だからこんなことになっているのだもの。だからこそこうしてここまで嬉しい苦しみに浸れているんだとは思うけど百五十万部売れてる作品ってことを考えると何が起きているのかと軽く混乱する。しかし何も難しいことはそこにはなく、単に私は特別ではなく、あなたも特別ではなく、あの人もその人もあんな人やもしかするとあそこの人やその隣のあの人ですら皆変わらず砂漠なのだというだけなのかもしれない。砂漠で衛星で。カバー下が私の一番好きな色である紫だったことが本当に嬉しかったよ。結末を見届けるまではどうしても死ねないと思ってたけど、終わりではあっても決して結末ではないものを見てしまったからもう少し生きてみても良いかもしれないな。『宝石の国』も酷薄な目をしながら笑ってこっちを見てるしな。少なくともあの世界の終わりも見届けないことにはまだ概念存在になって遍在する訳にもいかない。

 塔野先生が凄く良いキャラだっただけに意外としっかり物語に絡んで来なかったのは残念だったな、と思っていたところへ最終巻での大役だったのでそれも嬉しかったことのひとつ。しれっと元の話題に戻る。わかりあえないということのひとつの象徴ともいえる彼が彼なりに懸命に足を踏み出して、身を乗り出して、多少の擦過傷をつくることにこそ成功しながらも綺麗にスカる姿は美しかった。一番、物語全体を通してのテーマがそのものずばりという形で現れているシーンなのでは無いだろうか。テーマと、それについて物語られていく中で行き着くことが出来た光景が描き出されている箇所。ドラマチックではないけれど、それだけにすんなり胸に入ってきていつまでも出て行かない。性質の悪い毒のような痛みを与えてもらえる。その後に控える朝と槙生ちゃんの──あれは果たして惑星と衛星の衝突だったのか─あの場面へと至るための心の準備をさせてくれたという点においても非常に重要な意味を持ったシーンだった。

 そしてもう何といっても最後の朝と槙生ちゃんである。今巻の冒頭から示されていた「言葉の足りなさ」の何たるかが巨大なドラマとなって爆発する。紛うことなきクライマックス、とそこからの槙生ちゃんらしい愛と受容の表明で、一時だけ、終わってしまうことへの悲しさも忘れてただ素直に圧倒される。朝方、卒業式へ向かうための電車の中、その青さと白さをまるでそこに確かにあるように感じながら、もうじきに紙幅も無くなるのだということがさびしいだけのものではなくなる。凄い。そうなることを見越して描かれていたのかは分からないけど、十一巻はまるで一本の映画のように綺麗な流れが出来ていた。既刊全てが思い返せばそうだったような気もするが、際立って最終巻は見事にまとめられている。『劇場版 違国日記』という感じだ、とか言ってしまうと途端に安くなる上に現実として実写版が公開されるのだからばつが悪い。とはいえ私の中では十一巻が劇場版として位置してしまえるので申し訳ないけど実写はとうとう本当に必要なくなった。とはいえ未だ発表されていない朝役にもよる。日本の実写化作品というのは時折信じられないような奇跡を起こすので、それが巻き起こることをほんの少しだけ期待しておきたい気持ちもある。

ひとまずの、読みたてほやほやの感想はここまでにする。今回は後から今のこの感情を思い出せるように書いたまでなので、そのうち改めて全巻を読み直してから全体の感想をしっかり書きたい。まだ二巻くらいしか出ていなかった頃からずっと自分の中でダントツに好きな漫画として君臨していた作品だから、これだけでは全然書き足りない。もっといくらでも語りたいことはある。しかし今日のところは、ヤマシタトモコ先生長い間お疲れ様でした、ありがとうございました、ゆっくり休んで、そのうちまた新しい作品を読ませてください、とだけ最後に付言しておきます。

出会えて良かった。

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