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天草騒動 「66. 山田右衛門助命の事」

 落城後、諸大名衆は高久の城に入って戦功の評議をされた。

 まず、生け捕った者に首級を見せて、頭分の者の首級を選び出させたところ、蘆塚忠右衛門だけは谷底に飛び込んだため首級はなかった。

 また、巨魁の四郎大夫の首級はどれかわからなかったが、これが第一の首謀者だったので、必ず見つけ出して獄門にかけなければならないとの事になり、翌二十九日になってから総角あげまき前髪立ちの首を選び出したところ、およそ二三百級も出てきた。

 そこで、これらを白洲に並べて生け捕りの者に見せたところ、女子供の中には四郎を見たことのある者がいなかったため、四郎大夫の母を呼び出して、伊豆守殿が、「そのほうの伜の四郎大夫の首がこの中にあるか探し出せ。」と仰せになった。

 老母は並べられた首を一つひとつ見て、「この中には四郎の首はございません。」と申し上げた。人々は、「さては乱戦だったため谷底に落ちたのかもしれない。」と、これらの首を片付けさせようとした。

 その時、松平伊豆守殿が、十番目の首を洗って見よと仰せになったので、下役人がその首を持って行って洗ったところ、血が染み付いて落ちなかった。

 そこで北条殿が指図して、「湯の中に荏の油を少し入れて洗えばよく落ちるものだ。」と仰せになったが、下役人が、「陣内に荏の油がございません。」と言うので、安房守殿は、「桐油提灯の類を沸騰した湯の中に入れて、煮出して使え。」と仰せになった。

 そのとおりにして洗ったところ、血はことごとく落ちたので、人々は北条殿が万事に通じていることに感心した。

 さて、洗った首の髪を掻き上げ、台に載せて母の前に置き、

「この首は四郎の首か。」とお尋ねになったところ、母は伊豆守殿をじっと見て、

「このように御丁寧にお取り扱い下さいましたのは、まことにかたじけない思し召しでございます。おっしゃるとおり、この首はわが子の四郎の首でございます。何と変わり果ててしまったことか。」と、眼を瞬かせていたが、何を思ったのか顔を上げて、

「たとえ賊徒と呼ばれようと、何万人という中で大将と仰がれたのは本懐でございます。」と申し上げた。

 北条殿が伊豆守殿に向かわれて、「伊豆殿は、四郎の顔を知ってらっしゃったのですか。」と御尋ねになったところ、

「いいえ、大勢の一揆どもを、それがしがどうして知っていましょうか。しかし、たった今、彼の母が首を見終わった後、再び見返して目を留めたのがこの首でした。親子の愛情が自然と眼に現れました。とかく人々は選び出す首にばかり目を付けるものですが、それがしは母の顔色に気を付けていたのです。同じ目でも、見るところが人とは違っていたのです。」と、お答えになった。

 北条殿はそれを聞いて、「さすがは伊豆殿、よくそのことにお気付きになられた。もしもこのまま誰も気付かなかったら、それがしが指摘しようと思っていたのです。」と、言われた。

 その場に居合せた者は、皆、「伊豆守殿といい、北条殿といい、あっぱれ、目の付けどころが違う。」と、感心し合った。

 さて、親の渡邊小左衛門は、四郎が自分の子だったため、その罪科を逃れ難く、長崎に引き渡されて結局磔にかけられた。

 小左衛門の妻、伯父甚兵衛の妻子、ならびに頭分の妻子十二人は、原城の麓の有馬の浦で磔にされ、宮崎、対馬をはじめとする生け捕りの者三十人余りは、原の城下の小浜の浦で首をさらされた。

 諸方で討ち取った首は、残らずもとどりのところで竹に縛り付け、串柿のようにしてかけ並べ、四郎をはじめとする頭分の首級は獄門台に据えた。

 また、落城当日に生け捕りになった女子供二千人余りと、それ以前にあちこちで生け捕りになった者、合わせて三千人余りは、全員を処刑するのも不憫であったので、宗門を改めれば助命することになった。

 御仕置き場に広く垣を結い廻し、その中に穴を掘って切支丹の本尊の像を置き、「これを踏んだ者は助けるが、踏まない者は切り殺す」と言い渡したところ、三千人の女子供の中には一人もその像を踏む者がなく、悲惨なことに全員ことごとく斬られてしまった。

 その中で、盲人が一人だけこの像を踏んだが、その後、「善主ぜんすぱりぱり」と唱えて像を戴いたため、この者もやがて成敗された。

 ここに至って、この一党に加わった者の中で、助かった者は一人もなくなった。

 また、生け捕りの中に、首枷足枷をかけられていた者が一人いた。

 重罪を犯した者と思われたため、どのような罪を犯したのか吟味されたところ、

「山田右衛門と申す者でございます。同国蓮池に老母を一人隠して籠城致しましたが、母の命を助けるために先頃寄せ手に内応致しました。ところがそれが露見に及び、このように厳重に縛られておりました。落城の時、斬って捨てよと獄屋から引き出されましたところ、事態が切迫したためそのまま捨て置かれ、生け捕りになったのでございます。」と申し立てた。

 「さてはそういうことであったか。」と、老母や妻子と共に助命され、後に江戸表に召し出されて、一揆の次第、籠城の始末を尋ねられて委細を言上した。

 その後、西国筋の切支丹宗の目明かしに任命されて、上津村の畑や屋敷を残らず元通りに下し渡された。

 四万人余りの中で、一命を助かっただけでなく、公儀のお誉めににあずかって再び家を富ませることができたのは、まことに冥加みょうがにかなった事である。

 この右衛門は正直な性格で、しかも才覚があったため、耶蘇宗を信仰せず、その上、自分を犠牲にしても老母を助けたいという孝心を天が憐れまれ、神明仏陀の加護があってこのような果報にあったのであろう。まことに有難いことであった。これは、人の大道である孝の徳によるものというほかない。


67. 諸将御軍令によって糺明の事

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