ヴェルナー・フィンク伝説

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ナチス時代のジョークにこんなものがある。

ヴェルナー・フィンクが舞台でパフォーマンスをしている時に、お客さんにこんな質問をした。

「Gで始めるドイツ人の名前をお答えください。ただし、知性的で、アーリア人らしい容姿、その上、大臣にまでなった偉い方です」

すると、客席から「ゲーリング!」という声が響いた。

「違います。私は知性的といいましたよ」

続いて、「ゲッベルス!」という声が響く。

「違います。私は、アーリア人らしい容姿とも言いましたよ」

フィンクは一度、客席を見渡して言った。

「皆さん、ゲーテをお忘れですか?」

※詩人・作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、ワイマールの大臣をやったことがある。

ナチスのジョークの中には、枕言葉のように「ヴェルナー・フィンクが言った」と始まるものが多い。まるで、仏教経典の「如是我聞」(「私は仏陀からこう聞きました」の意)のようなもので、戦時中、アメリカ人やイギリス人の中には、ナチスを揶揄する為に、ヴェルナー・フィンクという架空の人物が作られたと思った人がいたらしい。

しかし、ヴェルナー・フィンクは実在の人物である。

ヴェルナー・フィンクは、1902年にザクセン州ゲルリッツに生まれた。若い頃から旅回りのおとぎ噺語りとして各地を放浪し、やがてベルリンのキャバレーで舞台に立つようになる。

キャバレーといっても、日本のものとは違い、コメディーやダンスを見せるレストランやナイトクラブのことで、ロンドンのミュージックホールや日本の寄席に近いものと考えた方がいい。

29年には数人の仲間と共に、自ら「Die Katakombe」(カタコンベ、地下墓地の意)というキャバレーを立ち上げると、台頭するナチスを絶妙に揶揄するジョークを連発し、ベルリン屈指の人気コメディアンとなる。

ヴェルナー・フィンクは言った。

「この店の名前は、「カタコンベ」といいますが、先日、この意味を事典でひいてみました。お教えしますが、これって「迫害されるキリスト教徒が集う場所」ってことらしいですね」

彼がこう言った、こうやったという話は、後に「ヴェルナー・フィンク伝説」となってしまったために、実際に本当かどうか分からないものも多いが、ステージでナチス・ジョークをやり続けていたのは間違いない。

ある時、ゲシュタポの人間が彼のジョークをノートに書き留めているのを見つけると、彼は大声で尋ねた。

「私の話し方、早過ぎませんか?ゆっくり話したほうがいいですか?では、私の言葉に続いてください」

そう言ってから、ゆっくりとヒトラーを馬鹿にしたジョークを、大声で喋ったこともあったらしい。

ヴェルナー・フィンクは言った。

「この世の矛盾とは何か?イタリア式の挨拶をするオーストリー人がドイツの首相になること」

そういうことをやっていれば当然なのだが、1935年にはゲッペルスの命令で「Die Katakombe」は閉鎖、彼と仲間たちは逮捕され、KZ Esterwegenに収監されてしまう。

ヴェルナー・フィンクは言った。

「収監は偉大な一歩である。逮捕前、私は収監の恐怖で自由が縛られていた。しかし、今は私は収監されている。すなわち今こそ自由だ!」

しかし、ある女優が、ゲーリングに働きかけたことで、一年間の上演中止を条件に釈放される。ゲッペルスとゲーリングの対立がうまく働いたのだろう。

彼はナチス政権下では度々危険な目に会っているが、なんとかそれを乗り越えられたのは、軍や政府の上層部を含む彼の幅広いファンが密かに助けてくれたことも大きいと思う。

その後、再び逮捕されかねない状況に陥ったために、先手を打って一兵卒として国防軍に志願、なんとか戦争を乗り切ることが出来た。

彼は、後に戦時中の体験を基にした演目「Der brave Soldat schweigt」を発表している。

全面降伏の報を聞き、ヴェルナー・フィンクは言った。

「やれやれ、ひどい時代は終わったか。しかし、千年というものは、あっという間に過ぎるものらしい」

※ナチスは「千年帝国」を自称した。

戦後、彼は再びキャバレーを立ち上げ、TVや映画にも多数出演し、68年にはアメリカ巡業も行った。

1978年にミュンヘンで死亡。死ぬ寸前まで、舞台でのパフォーマンスを行い、波乱に富んだ芸人人生を終えている。

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