見出し画像

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』を考える <白梅の芝居よもやまばなし>

 私にとってのスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』

 スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』は、ミュージカル『ラ・マンチャの男』と並んで、私にとって特別な意味がある作品です。
 十数年前、四代目市川猿之助襲名披露の演目として『ヤマトタケル』が新橋演舞場で上演されました。九代目市川中車襲名、五代目市川團子初舞台でもありました。それを拝見した時、この作品がいかに自分にとって特別な作品であったか、改めてというより初めて気づいたように思います。
 カーテンコールに二代目市川猿翁丈が姿を現した時、自分でも驚くほどとめどもなく涙が溢れてきました。

 初演以来、私自身が猿翁丈の奮闘とこの作品にどれだけ支えられていたのか。
 よくここまで頑張ってきたな‥、頑張ることが出来たな‥と、はじめて自分が歩んできた道のりを自分自身で振り返り、受け止めることが出来た一瞬だったと思います。そして、猿翁丈の元気なお姿を見せて頂いたこととあわせて、感謝の気持ちとうれしさでいっぱいになり夢中で拍手したことを思い出します。

 私にとってそれだけ特別な作品であり、猿翁丈の追悼とも言える今年の2月3月における新橋演舞場における公演でしたので、大変楽しみにして劇場に足を運びました。
 若きお二人のヤマトタケルを見ていて、舞台としてはフレッシュで真摯に取り組んでいらっしゃる姿を素直に楽しめればよかったのですが。
 どうしても心底から楽しめないことに自分自身が大変戸惑ってしまっていました。どうこの作品と向き合うべきなのか、その戸惑いを二ヶ月を通して最後まで乗り越えることができなかったというのが、正直な感想です。

 なぜ戸惑いを禁じ得なかったのか。三代目や四代目の時は熱い芝居でその作品の世界観に疑問を挟む余地が与えられなかったから何のためらいもなく作品を楽しめていた‥、とも言い難い面があるように思います。
 日本の古代史やヤマトタケルに対してこの十数年の考察により、私自身の歴史観がなり変わってしまったことが大変大きいとは言えます。
 ただ、一番の原因は今の時代状況にあることは否めません。
 有無を言わせないロシアによるウクライナへの侵攻。
 そして日本にとっても明日は我が身になりかねない世界情勢。

 軍事的な強者が弱者を征服していくような印象を与えてしまいかねないこの作品の流れ。それを芝居に過ぎないのだから‥と思うことは私には出来ません。今現在の私には受け入れることが出来る範囲を大きく超えてしまっていると言わざるをえません。
 どうしても素直にこの作品を楽しむことが出来ないほど、私自身の心がこの作品の基盤をなしている考え方に対して拒否反応を起していることを、自覚しないではいられませんでした。  

 梅原史観への疑問

 記紀におけるヤマトタケルの東征が例えば強者が弱者を征圧していくためだけのものであったとしたら、そうした歴史に対しての批判を込めた作品として、それはひとつの描き方だと言えるかもしれません。
 ただ、記紀を読んでいると、ヤマト=日本の統一もしくは、建国の過程における東征は思いは単なる征服欲の上に立ったものだったとは私には思えません。
 今となっては非常に無器用な書き方となっているといえるかも知れませんが、殊にヤマトタケルやその周辺の人々による東征への思いは、そうしたところにはなかったであろうと私は考えます。

 ただ、梅原猛氏の描いた世界に対して真っ向から反対すること。それはこの作品に敬意を払われている方に対しても水を差すことになりかねません。それも大学者の考えに対しての反対です。私としても大変憚れることであることは間違いありません。
 そんな時、<勇にあらずして何をもって行わんや>という言葉を引用している團子丈のインタビュー記事を目にしました。
 遅くなってしまった上、現在進行形で猿翁丈の追悼ともいえる公演が続いているさなかではありますが‥。前向きな思いを込めて、梅原猛氏の史観に対する疑問を中心に、考えを少しまとめてみたいと思います。

 今、史上のヤマトタケルがどういった人物なのかを云々することは、この作品を考える場合重要な要素だとは思いません。
 例えば史上の人物とはかけ離れていても、その人物を描くことで今の観客に何を訴えていくのか。何を考えさせられるのか。殊に歌舞伎という観点から言えば、どれだけ魅力のある、人々が憧れることが出来る人物像を描けるのか。舞台としてはそちらの方がずっと大切な要素だと私は思っています。芝居はある意味で人々に「慰み」を与えるものなのだから。

 この作品における私にとっての大きな疑問の一つは、梅原猛氏の「高潔な心を持った縄文人」対「征服者としての弥生人」という史観の単純な対立構造を大きな柱として作品が書かれていることにあります。
 情緒的な考えに支配されると「昔は良かった」と過ぎ去った時代の良かった面だけがクローズアップされがちです。そして、それは必ずしも悪いことだとは思いません。
 ただ、本当に縄文人の世界は地上の楽園であり、弥生人のもたらした文明が楽園を破壊したといえるのか。

 そうした史観があってもいいと以前であれば思えたかもしれません。が、マハーバーラタ戦記の周辺を学ぶ過程で、人間が生きていくということは綺麗事だけでは済まないということを歴史の中に私は学びました。どんな社会にも「負」の側面はあり「歪み」はいやが上にも生じます。
 どんな時代にも問題はあり、社会には影があり、悲しみや心の闇を抱えて生きている人間は少なからずいるのだと思います。

 例えば、日本は四季があり海の幸山の幸もあり自然に恵まれている一方で、様々なそれも激甚とも言える天災にみまわれる危険性も多くある土地柄かと思います。
 そんな土地柄で、弥生文化の象徴である米の栽培により食物の貯蔵が可能となったことは文明が進んでいくうえでは、不可避であったろうと私には思えます。
 飢えてジワジワと人が死んでゆく、もしくは生きるために食物を取り合って人々が争う。そうした世界は生き地獄とも言えるのではないでしょうか。
 食物が貯蔵できるようになり飢える人が減ったがゆえに人口も飛躍的に増加したことは間違いないであろうと思います。

 また、日本列島の自然は種をまき植林をすることによって培われてきた側面が大きいことは否定できません。それによって日本における植物や動物の生態系はかなり縄文時代からも変わってきていると私は考えます。
 日本の豊かな自然はそこに生活する人々が自然と共生しつつコツコツと作り上げてきたということを決して忘れてはならないと思います。
 今現在愛でている日本の自然は、縄文時代から続いているものとは決して言えないのです。

 もう一つ気になるのは、この作品が古事記に描かれた物語をベースにしながら、古事記ならではの国作りに対する姿勢や思いがほとんど作品に反映されていないことです。
 それ故に、ヤマトタケルの活躍も「悪」の強者が「善」の弱者を「力」でねじ伏せ征服していくがのごとき印象を与えかねない単純構造の中で描かれているだけに終わってしまっているように感じます。そして、それでよしとしている梅原史観には私はどうしても同意できません。

 古代史の中から何が学べるかのか、なにをこの作品は見いだそうとしているのか。そうした視点で語ることが出来るテーマを、史観を、この作品が持っているのか。
 人間社会はとても複雑であり、単に強者は「悪」弱者は「善」とか、誰かを悪者にするだけの単純な思考だけでは問題を解決していくことは出来ないように私には思われます。

 「ヤマトタケル」の物語に何を見いだすか

 今のように世界史的規模で世の中の状況が緊迫しているなかで記紀の中に学ぶべきものがないとしたら、それは致し方のないことです。
 「ヤマトタケル」の物語も悪い意味での教訓としてのみ今の世の中に反省材料を提示するだけのものでしかないのであれば、今のストーリー展開でも仕方がないとも思います。
 しかし、記紀が提示しているヤマトタケルの東征の物語は、力による他者の征服を是とし、力によって他者を征服したことを賞賛しているとは、私にはどうしても思われません。

 古事記では「倭建命(ヤマトタケルノミコト)」と表記されます。
 「倭」の「建国者」として位置づけられている人物と古事記は考えているのだと私には思われます。
 ただここでいう「建国」というのは、考古学時代の日本列島の「倭」の建国という意味合いではなく、七世紀以降の稚拙ながら言葉で書かれた歴史を持つ世界史の中の列島規模の「国」であると、私は捉えています。

 そして古事記の描く国作りの精神は「言向け和す」ということであり、その精神は非常に大切なものだと思います。
 聖徳太子の提示した「和を以て貴しとなす」という考え方とならんで、日本人が自然と大切にしてきた精神だからこそ、千三百年以上の間、日本書紀のみならず古事記も残してきたのだと言えるように思います。

 七世紀の建国以来というより、有史以前の列島においても他民族を制圧した上で他民族の共同体の人々を奴隷とするような制度が社会組織の中において存在していたとは、私には考えられません。奴隷というものの定義が問題になってくるかとは思いますが。
 私はこのヤマトタケルの物語の背後にあるその当時の「倭」のおかれた世界史規模の社会情勢を念頭に置く必要があると考えます。
 記紀が書かれた時代の社会情勢と言ってもいいかと思います。

 江戸時代における長年の鎖国体制を経てきたためもあるでしょう。
 もともと日本が近視眼的な事象にとらわれて鳥瞰的に社会情勢を見ることが苦手なお国柄ということもあるかと思います。
 日本古代史のみならず日本の歴史を列島内の状況だけを見て考察することが主流であることは日本史の教科書を見ても明白です。
 しかし、「日本国」としての統一的政権樹立の必要性があった世界史規模の時代状況を念頭におかないと、記紀にたくされた当時の人々の思いがどういったものであるかはわからないのではないかと私は思います。

 「言向け和す」ー 倭の精神

 古事記に色濃い「言向け和す」という国作りにおける精神。
 熊襲の首領への攻撃も東国への遠征も、単に武力によって他民族を征服していったと考えるべきではないと私は考えます。
 「日本国」を形成していく過程において、「まつろわぬ者」に対して時に武力が必要であったであろうことは否めません。現代においても、軍事能力を持たない国家は存在し得ません。

 ただ、日本列島において他民族を奴隷化するような征圧は、軍事力を持たない大家族程度の小さな共同体しか存在しないのであれば可能かも知れませんが、そうでなければなかなか難しいように思われます。
 大陸から海を隔てて存在している上に、ゲリラ戦に適している山や川に囲まれ分断された土地の寄せ集めで成り立っているようなこの島国において、おそらくそれは軍事的にも不可能であったのではないかと思われます。
 そうした地勢の問題から言っても、むしろヤマトタケルの東征のような方法こそが日本国が一つにまとまっていう上でも有効だったのではないかと私は考えます。

 そしてもう一つ、まつろわぬ共同体においても首領さえ責任をとれば共同体自体を壊滅させることはしないということ。
 熊襲タケルがヤマトタケルに名前を譲りまたヤマトタケルがそれを受け入れたのは、熊襲タケルがヤマトタケルをその共同体を率いて守るにふさわしい者であると認め、その共同体の行く末をヤマトタケルに託したと考えた方が自然のように私には思われます。

 こうしたやり方は、中世から近世にかけての天下統一の過程においてもなされた手法でしょう。刃向かった者も首領が責任を取ればその一族の者は助けられ、政権と結びつけば立場も与えられる。供に統一国家の一翼を担う存在として認められて路頭に迷うことはない。基本的にそうした構図があるのは見逃せません。

 日本がれっきとした軍事力をもった強国であり、ヤマトタケルも強力な軍事力をもって東征を行ったがごとき、対外的に飾ったような記載が日本書紀ではされているように私は思います。
 それは、日本書紀では例えば新羅のように女王が統治する国と言うことで唐に軽くみられたことを教訓とし、文飾をしたのではないかと思うのです。
 古事記ではヤマトタケルは兵も与えられず東国の征圧に出され、叔母のヤマトヒメのところに泣きついて愚痴を言う姿が描かれます。古事記の方が実態を伝えているのだと私は考えます。

 軍事力で威圧するだけでは従わせることの出来なかった熊襲をヤマトタケルが征した。
 東征を命ぜられたのは、歌舞伎でもよく上演される連獅子のテーマと同じではないでしょうか。獅子は我が子を千丈の谷に突き落とし這い上がって来られるかを試す。まさにそれと同じような試練がヤマトタケルに与えられたのだと考えられます。

 兵を与えられず「言向け和す」ことで建国の一翼をになっていった。
 大和政権が樹立され国家が統一されていく過程において、もちろん権力闘争はあったと思います。ただ、列島全体が一つの「家」「国家」としてまとまっていく上では、必ず大義があったはずです。
 大義があり、その方向性は誤ってはいなかった。
 「日本国」として統一されて以後、日本は日本としてあり続けることができる体制を維持してきたのですから。

 ヤマトタケルの物語の中で、大義に殉じていく姿勢が弟橘姫の入水にも表れているのだと私は考えます。
 記紀ではワカタケルは弟橘姫の子であると書かれていますが、この母の功によって、ワカタケルは特別な地位を得たのではないかと私には思えます。
 入水の際に八重畳を敷いたとされるのは国母としての皇后の立場ともいえる行いであることを暗示しているように思われるのです。 

 「天翔る心」

 随分梅原版『スーパー歌舞伎ヤマトタケル』に対して批判的な面を書き連ねてしまいました。
 ただ、『スーパー歌舞伎ヤマトタケル』が私にとって特別な作品であることに変わりはありません。
 特別だからこそさらに進化してもらいたいという思いも強くあります。

 私はこの作品が大好きです。どこが好きなのか。
 それは三代目市川猿之助丈の生き様が反映されているような「天翔る心」を信じさせて下さる作品だからだと思います。

 台本を素直に読めば、中村隼人丈のヤマトタケルのような繊細で純粋な心を持った貴種の悲しい魂が、最後に昇天していくかのような描かれ方になるのは一つの捉え方であろうと思います。

 ただ、歴史上のヤマトタケルも病を克服できずに悲劇的に命を落としてはいないと私は考えています。
 その説明に関しては、日本の古代史を解明しきれていないのでここでは踏み込めませんが‥。
 大きな挫折と当時の政治状況によりヤマトタケルとしての「人生」を終える必要はあった。
 しかし、新たに一歩を踏み出したのであり、それが「白鳥」となって西へと飛び立つ姿として描かれているのだと思います。

 理想を求め、その理想を実現すべくどこまでも「天翔けていく心」
 そうした澤瀉屋の精神がより輝き、多くの人に力を与えて下さるものであるように願って、今回は筆をおくことにいたします。
                       2024.5.5

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?