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第三十七回 辰 四国こんぴら歌舞伎大芝居 

『沼津』『羽衣』『松竹梅湯島掛額』『教草吉原雀』 <白梅の芝居見物記 番外>

 江戸の芝居小屋ー金丸座という「芝居国」

 四国の金丸座での見物はかないませんでしたが、金丸座での初めての舞台配信とのことで拝見させて頂きました。
 改修後の再会場杮落とし公演であり、2020年コロナ禍で観客を入れての公演が中止になってしまって以来、4年ぶりの上演です。
 映像で舞台を拝見することはあまりないのですが、思ったより面白くアーカイブで見直してみると色々考えさせられることも多かったため、覚え書き程度ですが少し書いておこうと思います。

 金丸座へは第二回公演から何回かお邪魔をしたことがあります。ただ長らく足が遠のいていました。
 近代劇場では味わえない、金丸座のような芝居小屋で上演される歌舞伎に強い思い入れを持っていた時期が私にはありました。
 ただ、前近代的な小屋ならではの味わい深さがある一方、失われてしまっていることも多い。そんな思いにとらわれてしまうことがしばしばあり、素直に楽しめなくなっていってしまいました。

 そんな時、ある役者さんの芸の工夫を見て突然、考えが改まりました。
 昔日の今は見られない芝居にばかり憧れを抱き、ないものねだりばかりしているより、現状を受け入れ今あるもので最大限の工夫をすることの方が大切なのではないか。
 ふとそんな考えを持つようになったらとても心も軽くなり、いつのまにか金丸座への思い入れが薄れていってしまった、というのが正直なところです。

 最近になって金丸座の芝居に夢中であった頃に懐かしさを感じるようになり、久々に伺おうかとは思うものの、なかなか重い腰を上げることができないでいました。
 そんななか、配信で視聴させていただく機会を得ることが出来ました。
 役者の皆さんの思い入れの強さ、奮闘、そして何より楽しみながら芝居をなさっているお姿を見て、魅力ある「芝居国」にまたお邪魔したいという気持ちがよみがえって来ました。
 映像ながら、十分「芝居国」の雰囲気が感じられます。
 5/6まで配信されるということなので、少しでも多くの方に見て頂けたらと思います。

 伊賀越道中双六 沼津

 東海道沼津宿への街道筋の場で、舞台転換の間荷物を担ぎながら十兵衛と平作が客席を通っていく場面。近代劇場でも人気があるところかと思いまが、映像で見ていても金丸座ではまさに一つの空間に舞台と客席があることを実感させられます。「芝居国」ならではの雰囲気を役者も観客も楽しんでおり、見ているこちらも心浮き立つようです。

 平作住処の場でも、本当に狭い空間での芝居はまた違った趣です。
 狭い空間で演じられているため、映像を見ていても十兵衛、平作、お米三人の役者が一つの画面におさまって芝居が進行していくことに新鮮な感動を覚えました。 
 歌舞伎芝居はこうした空間で発達してきた演劇であることに改めて気付かされます。劇場の近代化に伴い変質していったところもある一方で、こうした芝居小屋でもすぐに馴染んで違和感なく成り立つ芝居であること。それは不思議でもなんでもないことでした。
 歌舞伎がいつの間にか近代演劇的な要素をその中に取り入れることが出来たのも、それを可能にする素地がすでに歌舞伎芝居の中にあったことを、実感させられます。

 平作の中村鴈治郎丈、十兵衛の松本幸四郎丈、お米の中村壱太郎丈、孫八の中村亀鶴丈それぞれがよい味わいを出しておられ、市川染五郎丈が安兵衛さえ演じられるようになっていることに成長を感じます。

 羽衣

 舞踊に関しては特に浅学で申し訳ないのですが、これは、五代目尾上菊五郎の”新古演劇十種”の一つの『羽衣』が元となっているのでしょうか。
 謡曲を題材にしていることはしれますが、能楽においてもこの作品は特殊な位置にあるようです。私自身よくわからない部分が大きいのでコメントしようがないのが正直なところではあります。
 この曲のモチーフである駿河舞や駿河歌がどういったものなのか。雅楽と関係があるとすれば、武人の舞と関係があるかとも思われますが‥。

 能の『羽衣』において以下の点が見せ場のように私は想像します。
 一点は、羽衣を返したら天女は舞も見せずに昇天してしまうのであろうという白龍に「いや疑ひは人間にあり。天に偽りなき物を」ときっぱりかえす天女の凜とした性根。もう一点は、美保の松原を眺めつつ昇天していく天女の気高さや美しさ。
 その一方で、歌舞伎舞踊として歌舞伎ならではの魅力や、何をどう表現したいのかが今ひとつ私には伝わってこないのが残念でなりません。何故そう思えてしまうのか、その原因がどこにあるのかは私にはわからないのですが‥。

 ただ、中村雀右衛門丈の天女は、とても嬉しそうに天に昇っていく姿が大変印象的です。金丸座の花道上を宙乗りで飛んでいく姿は、これぞ「芝居国」の天女と言える趣があり、これだけでも一見の価値はあるかと思います。
 染五郎丈が時分の花の若々しさ美しさが魅力で、丁寧に踊られているのが好舞台であると思います。

 松竹梅湯島掛額 「お土砂」「火の見櫓」

 江戸本郷の八百屋の娘お染が、見初めた寺小姓に会いたさのあまり放火をするという事件を起こし、天和三年(1683)に火炙りの刑に処せられました。
 そのお七を題材にした芝居は歌舞伎でも多く取りあげられ一つの「世界」として成立しているほどです。
 ただ、お七物も次第に放火を題材とする趣向からはなれていきます。
 最近は、おっとりとした娘の恋路を”お土砂”を使った喜劇でみせる「天人お七」の場と、禁を犯してまで恋しい人に会いに行こうとする「櫓のお七」の場をつなぎ合わせた形での上演が繰り返されています。

 壱太郎丈のお染はおっとりした娘のかわいらしさをしっかり見せた上で、人形振りから恋しい人の命を救おうと宝刀を抱えて吉三の元へ向かうまでの熱演が光りました。大切な刀に付いてしまった雪を袖で拭き取るしぐさにお七の意思の強さを感じさせたのがとても印象深かったです。
 中村京蔵丈のお杉と木戸を開けてもらおうと木戸番を呼んで回る場面では、金丸座の芝居空間を生かして客席の中を回って歩くのですが、京蔵丈の芝居の手堅さとともに、観客から笑いをとりながらもしっかりとした芝居でその役として息づき、その情景の中に観客を引き込んでしていらっしゃるところが素晴らしく感じました。

 幸四郎丈の長兵衛をはじめ、役者の皆さんがまずご自分達が楽しんで演じていらっしゃって、金丸座ならでは楽しい雰囲気が映像からも伝わって来ました。 

 教草吉原雀

 私は今まで舞踊に関しては漫然と拝見していることが多かったので、今回はじめて、単に『吉原雀』として上演する時と『教草吉原雀』として上演される時では演出がかなり異なっているということを知りました。
 前者の上演の際は単なる鳥売りの男と女で、後者の上演の際は鳥売りの男と女が実は雀の精、鳥刺しの男が実は鷹狩りの侍だということです。
 ただ、鳥売り姿の衣装からこの二人が誰を暗示しているかは容易にわかることで、そのことには気付いておりそれは正しかったと思います。

 『教草吉原雀』の初演は、明和五年(1768)市村座の顔見世狂言『男山弓勢競』の二番目大喜利の舞踊としてです。
 現在では、初演時の作品の世界観からはかなり役の設定も変化しているかと思います。どのように変わったのかなど詳細に検証する余裕はありませんが、初演時に何を描きたかったかという点では、この舞踊がその意図から大きく逸脱して伝承されている訳ではないのではないかと私は考えます。

 初演時の長唄の正本に「人王四十四代のみかどくハうせう天王の御宇とかよ」という詞章があるのですが、四十四代の天皇は「元正」であるのを天皇を憚って変えていると今では説明されています。
 私は以前『義経千本桜』で安徳帝が入水したのは壇ノ浦であるにもかかわらず八島の波に沈んだと書いているのは実は、わざと間違えて書いているのだとの考えを提示しました。
 この天皇名もそれと同じように、わざと史実とは異なって書き、この舞踊が何を描こうとしているのか暗示しているのだと考えます。
 ここではその指摘だけに留めておきますが‥。

 金丸座での上演は『教草吉原雀』で、鳥売りの男女の踊りだけではなく、鳥刺しが出て立回りもぶっ返りもあり見応えがあります。
 鴈治郎丈の男鳥売りが、柔らかみと色があって大変魅力的です。
 お二人のベテランならではの踊りから、幸四郎丈の鳥刺しの登場で芝居小屋全体の雰囲気もガラッと変わり、金丸座ならではの演出が光ります。
 花道に鴈治郎丈と仮花道に雀右衛門丈、花道と仮花道をつなぐ向こう正面に幸四郎丈を配し、それを幸四郎丈の背後から捉えた映像は、なかなかの見物でした。

 遊び心のあるカーテンコールまで付いて、お三人の笑顔を見つつ打ち出し。配信ながら大変楽しい時間を過ごすことが出来ました。
                      2024.4.28

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