見出し画像

辰 壽初春大歌舞伎 夜

<白梅の白梅の芝居見物記>

 鶴亀

 謡曲の『鶴亀』の詞章を長唄に移した舞踊。能では初番目(脇能)で、天下泰平、国家長久を祈念し、祝福するという、祝言物の一つです。
 中村福助丈の女帝がひときは祝言性にあふれ、福々しい舞台を見せて下さり、初春らしい気分に浸ることができました。

 松羽目物ではないですが、格調高い作品として、市川染五郎丈、尾上左近丈が行儀良く丁寧に踊っている姿は微笑ましくもありました。
 ただ、松本幸四郎丈と尾上松緑丈が行儀良く丁寧に舞うだけでは、物足りなく思えてしまうのは贅沢に過ぎるでしょうか。不老門に出御した帝や百官卿相、なにより万民の前で、嘉例によって鶴と亀が舞う趣向の作品です。もっと祝言性がその舞からにじみ出るような、見る者が正月らしい華やかな気分に浸れ、明日の活力を与えて下さるような、そんなオーラが溢れる舞を見たかったというのも、偽らざる感想です。

 寿曽我対面

 ここのところ若い役者さんによる「対面」が続いていたので、久々にどっしりとした感じのする一幕でしたが、それ故にまた不満も多く残ってしまったのも事実です。
 中村梅玉丈は仁としては十郎の方かもしれませんが、この一座ではやはり工藤を演じざるを得ないでしょうし、座頭としての存在感があったと思います。中村魁春丈の大磯の虎とともに、大歌舞伎の品格と大きさを支えていらしたと私は思います。
 また、坂東彌十郎丈の朝比奈は大きく温かさがにじみ出ていて魅力があり、兄弟を呼び出すまでの見せ場は、若い方のお手本と言えるのではないかと思え、見応えがありました。

 ただ、中村芝翫丈の五郎や中村扇雀丈の十郎は、これぞ後進へのお手本とはなかなか言い難い舞台で、それがとても残念です。
 頻繁に再演を繰り返している古典の演し物は、見物の目も厳しくなります。新しいお客様相手でも、わからないけどすごいと思わせる舞台を目指して下さらないと、これから古典芸能を支えていってくださる観客層が育っていかないように思われてしまいます。
 様々な新作により活況を呈しているかに思えますが、これぞ「古典歌舞伎」という舞台をこの世代の方々が示して下さらなければ、やはり、歌舞伎は安泰とは言いかねてしまうように、私には思われます。
 より一層の精進をご期待申し上げます。

 息子

 広い歌舞伎座の舞台に小さな小屋。その中で繰り広げられる台詞劇。
 『息子』は、英国のハロルド・チャピンの『父を探すオーガスタス』の翻案劇として書かれたものですが、原作とはかなり違った作品になっているようです。
 作者である小山内薫は”新劇の父”とも呼ばれた方です。近代において、歌舞伎のような旧劇しかなかった日本の演劇界に、革新をもたらした方と位置づけられています。
 その小山内薫の代表作が歌舞伎で上演されている‥。
 一年劇場通いをしても、なかなか歌舞伎の全体像を掴んだとは言えないのではないか、と私は思っています。あれも歌舞伎、これも歌舞伎。歌舞伎の懐の広さを感じていただける作品だと思います。

 古典歌舞伎では基本的にカーテンコールをしませんし、それに応えることもありません。「芝居」という祝祭空間を楽しんだ後は、パッと現実に戻って劇場を後にする。それが歌舞伎という芝居空間での遊び方だと自然に教えられてきた気がします。多少余韻を楽しむことがあっても、その非日常を現実の生活に持ち込まない。
 もちろん、新作などで最近頻繁に行われるカーテンコールを否定しているわけではありません。
 ただ、カーテンコールで終わらない芝居見物の在り方は、歌舞伎の長い歴史の中で培われてきた知恵であるのかもしれません。
 「歌舞伎沼」に落ちても、それによって身を持ち崩すような溺れ方をしない。芝居と現実の生活との境界はわきまえている。それが長く歌舞伎と付き合い、楽しんでいく上での秘訣と言えるのかもしれません。

 そんな歌舞伎芝居の中で、新劇から生まれたような作品は、珍しく見物した後にもその作品について、あれやこれや考えさせられてしまう作品群になっているのではないかと思います。
 もともと新劇自体、そうした問題意識を観客に与える演劇であるからかもしれません。若い頃、まだ、時代的に新劇の芝居を見る機会が多くあったのですが、そうした芝居を見ると、一週間くらい鬱々と考え込んでいたことが思い出されます。

 高麗屋三代による『息子』も、見物しながら、そしてその後もいろいろと考えさせられる芝居で、見応えがある演目であると私は思います。
 二代目尾上松緑丈と初代尾上辰之助丈によって上演された時は、火の番の老翁は最初から自分の息子だとわかっている肚で演じていたようですが‥。松本白鸚丈の老翁は‥。
 芝居を見終わった後、様々な考察がかけめぐり‥。収拾が付かないため、小山内薫の原作を読んだりしましたが、さらに混乱してしまいました。

 そこで、もう一度芝居から受けた印象に立ちかえり、考えを整理すると‥。火の番が若者を自分の息子であるといつ気付いたのか、ということは、高麗屋の舞台では、あまり大きな問題にならないように思えてきました。気が付いていようといまいと、白鸚丈と幸四郎丈の演じるこの老翁と若者とのやり取りに、大きな違いは生まれないのではないか、そう思えてきました。

 老翁は捕吏が番小屋の辺りを嗅ぎ回っていることには気がついていたでしょう。追われている者が訪ねてくる可能性を感じていた。そして老翁はただ罪人を嗅ぎ回っているだけの捕吏を人間として嫌っている。

 老翁はこの番小屋で様々な人間と話をし様々なひとの人生の一端を見てきたでしょう。その中には罪人もいた。自分のせいで捕まった者もいた。捕まる前に老翁に一両を与え自殺した者もいた。
 おそらく老翁は自分を頼り心を開く場所を求めて来た者には、どんな人間とも同じように向き合って来たのではないか。白鸚丈の老翁を見ているとそんな人物像を想像せずにはいられません。

 どんな者とも分け隔てなく向き合い、どんな人にも真っ当に生きて欲しいと願い、それを伝えずにはいられない。
 頑固で無器用だけれど、そうした誠実で正直な人柄から出る言葉は、父と息子の腹の探り合いなど思いも寄らない会話劇となって、成立しているように、私には思われました。
 父と子ともども計算などはなく、その場しのぎの言葉で取り繕う支離滅裂な息子の言葉を、いちいちその言葉通り受け止め反応している父との会話のように、私には思えてきました。

 そんな会話が成立したのは、芝居の中で、二人とも警戒心をもたずに自然に話が出来る雰囲気を、お互いに、早々に感じとっていたからに他ならないでしょう。

 時代は江戸に設定されていますが、明治という厳しさの中で生きてきた、頑固でブレのない頼もしい人物として描かれる白鸚丈の親父。一方、松本幸四郎丈の金次郎は、大正という人間として甘えが出てきている時代の息子。まるで現代にも通じるような、初演当時の世相をうつしているようにも感じられる、そんな関係性が自然と描かれているように私には思えました。

 どうにかして父に受け入れてもらいたい一心で、その糸口を父親から引き出そうとする幸四郎丈の金次郎。幕切れに「ちゃん」と呼ばずにはいられない、子の親への情愛。この若者の親を慕う心は、老翁の人間に対する深い情愛を幼い頃から感じ取っていたから、自然と生まれてくるものに違いないでしょう。無器用ではあるけれど、その根底に人としての温かみがあるから、子がここまで慕っている。そうしたものが自然とにじみ出てくるような、そんな舞台を拝見することが出来たと思います。

 若いながら、市川染五郎丈の捕吏も健闘しています。
 高麗屋三代の『息子』は、初演の六代目菊五郎と四代目松助のそれとも、二代目松緑と初代辰之助のそれとも、違うものになっているのだと思います。ただ、今しか見られない、様々なことを考えさせてくれる作品であることは間違いありません。
 初春に暗いとか古くさいとか思われる方もいるかもしれませんが、歌舞伎の間口の広さ、奥深さを感じさせてくれる、地味であるけれど皆さまにお勧めしたい作品であると、私は思います。
 
 ※『京鹿子娘道成寺』に関しては、尾上右近丈の歌舞伎座での舞台を見て、考えをまとめたいと思います。
                        2024.1.9

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?